照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

西洋音楽を学んでいた天正遣欧使節の少年たち〜『クアトロ・ラガッツィ』

エヴォラ(ポルトガル)のカテドラルでパイプオルガンを目にした時、日本語の案内板には、確か、日本から派遣された少年使節が「聴いた」とのみあったはずだが、その後ブログ等で、この楽器を演奏したという記述をいくつも見かけ、それは本当だろうかとほとんど疑う思いであった。

 

だいたい、400年以上も前の日本で、西洋の音楽や楽器に触れる機会が果たしてあったのか?ただ見たとか、演奏に耳を傾けたというのなら分かるが、弾いたとなると、いつ、どこで習得したのか、それがずっと気にかかっていた。

 

それが先月、『クアトロ・ラガッツィ 天正遣欧使節と世界帝国 』上・下巻(若桑みどり著・集英社文庫)という本を知り、何か分かるかとの思いもあって読んでみた。

 

著者は、一六世紀のカトリックの東アジアの布教について調査することになり、ヴァチカン秘密古文書館、次いでウルバヌス八世大学付属図書館で、最初はキリシタンの美術について調べていたそうだ。そのうち、天正少年使節についての文書がとても多いことに気づき、それを読んでいるうちに強く引きつけられ、後年、この本を書くに至ったという。

 

しかし、日本の少年使節について書くにも、日本国内の資料は当然ながら、当時の宣教師たちが本国へ送った報告書をはじめとして、各国の研究者が書いた本まで、幅広く丹念に読み込むというのは、相当大変だったろうと想像するだにクラクラしてくる。

 

だがそのおかげでこちらは、信長、秀吉を中心とした当時の国内情勢から、イタリア、ポルトガル、スペイン各国の事情に加え、仏教やキリスト教についても、噛み砕いて教えてもらっているかの如しだ。とりわけ、信長が暗殺された背景への考察には、確かにそうかもと興味を誘われる。

 

そしてところどころに、これは是非とも言っておかずにはいられないとばかりに、力の入った論が展開されるのだが、ふむふむと思いつつも笑ってしまう。

 

なぜ当時の女性たちがキリスト教に魅かれていったのか、仏教との比較において説明してくれる場面では、仏教が当初、女性を罪深い者と決めつけ排除したことに触れ、ひいては、室町時代に書かれた、読むにたえないという文章を引き合いに出して、相当お怒りなのだ。

 

"「・・・、女人に賢人なし、胸に乳ありて心に智なきこと、げにげに女人なり・・・阿弥陀の本願にすがってこの疎ましき女身を捨ておわしまべくそうろう」
「胸に乳ありて心に智なき」という文句には思わず巨乳タレントを思い出して笑ってしまうが、その乳がなかったらおまえはどうやって育ったのだと言いたくもなる。雌牛にも申しわけがない。それでみんなが生きているのだ。"(P・265~6)

 

"おまえは・・・"のくだりに、そうだそうだと大きく頷く私も、"雌牛にも申しわけがない"で、アレレレッと、ズッコケてしまう。それなら、雌山羊も入れなければ片手落ちではないかと、余計なことまで頭に浮かんできてしまう。

 

だが、笑ってもいられない。著者が言うように、
"なんら自分の罪ではなく、女に生まれただけのために最初から地獄に行くという話にはどうしても納得できない。"(P・270~1)
に、まったく同感だ。

 

結局、こういった女性観が後々まで尾を引いて、だいぶ改まってきたとはいえ、今日に至っているのではないかと思わざるを得ない。

 

しかし、これは何も仏教に限ったことではない。

"ただし、ここで断っておきたいのは、キリスト教も立派な女性蔑視の宗教であったということである。"(P・271)ということで、それについても著者独自の見解が示される。

 

ところで、イエズス会総長直々の任命により日本にやってきた巡察師ヴァリニャーノの、日本人を見る目の確かさには感心させられるばかりだ。ただ、「日本人の長所について」の一部などは、日本人の本音と建前の使い分けに惑わされたかなと思わないでもない。

 

"「・・(日本人は)いっさいの悪口をきらうので、他人の生活については語らないし、自分の主君や領主に対し不平を抱かず、天候とかその他のことを語り、訪問した相手を喜ばせ、満足させるようなこと以外にはふれない。・・"(P・163~4)

 

これは一見長所のようだが、実のところは、うっかり本心を漏らして要らぬ詮索を招いては大変と、当たり障りのない話題に終始して用心したのではないか。しかし、"天候とかその他のことを語り"には、当時からだったのかと可笑しくなる。

 

ちなみに彼こそが、4人の少年たちを使節としてローマに連れて行くことを思いついた人物だ。日本での布教をより成功させるため、ヴァリニャーノは、まず各教会に信者の子供のための教会学校を作り、その上に、将来のエリートの教育のために、関西と、北九州と、豊後の三地区にセミナリオを作ったそうだ。派遣の裏には、それらを維持、推進するための資金集めという事情もあったようだ。

 

1581年の年報では、有馬のセミナリオで学ぶ少年たちがいかに優れているかを報告しているのだが、そこに、


"「・・・彼らはオルガンで歌うこと、クラヴォを弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があって易々と正式にミサを歌うことができる」"(P・297)とある。

 

また、

"天正九年(1581)信長が突然安土の住院を訪れたとき、その最上階の三階にあったセミナリオを見学して、そこに備えつけてあったクラヴォとヴィオラを生徒に弾かせて、それを非常に喜んんだことが年報に書かれている。"(P・297)そうだ。

 

ここで、私の疑問があっさり解決してしまった。クラヴォというのは、小さなピアノのようなものというから、同じような楽器を、少年使節の一人が演奏したとしても不思議ではない。

 

但し、この本には、ヨーロッパに渡った少年たちが腕前を披露したかどうかの記述はない。でも、かなり音楽に親しんでいたようなので、多分弾けただろうとは推測できる。それさえ分かれば、実際はどうであったかなど問題ではなくなった。


ちなみに、信長の前でクラヴォを弾いた少年・伊東ゼロニモ祐勝(母は大友宗麟の姪)が、使節の筆頭になるはずだったという。だが、使節の派遣が急に決まったため、安土から彼を呼び寄せる時間がなく、代わりに、有馬のセミナリオで学んでいた父方の従兄弟である伊東マンショに決まったそうだ。

 

この少年使節を迎えたヨーロッパでの熱狂ぶりは、以前(7/18付け)書いた通りだ。しかしこれは、ヴァリニャーノと従者の黒人を見た当時の日本の民衆及び信長たちにも当てはまるように思える。つまり、自分たちと異質の者への好奇心が、熱狂を呼び起す一因ともなったのではないだろうか。

 

各資料の信憑性をも考慮しつつ、まるで謎解きのような筆の進め方にグイグイ引き込まれ、本当に面白く読み終えた。

 

普段は海賊、時に応じて海軍の一員って?『ローマ亡き後の地中海世界 』

"人間世界を考えれば、残念なことではある。だが、戦争の熱を冷ますのは、平和を求める人の声ではなく、ミもフタもない言い方をすれば、カネの流れが止まったときではないか、と思ったりする。"( 『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍 4』塩野七生著・新潮文庫・P・266)

 

航行中の船だけでなく、警備の手薄な地域に上陸しては物品略奪ばかりか人も拉致、町を焼き払うなどして、地中海沿岸に住む人々を震え上がらせていた北アフリカの海賊たちが、7世紀から18世紀までの長きに渡って地中海内を荒らし回れたのも、大国トルコ(オスマン・トスコ)の後ろ盾あればこそだったのかと分かれば、この言葉に大きく頷きたくなる。

 

また、少し前にある方がラジオで、ISの攻撃をやめさせるには、サウジアラビアからの資金を断たなければだめとおっしゃっていたが、まさにこれに該当する。そして、彼らが当時の海賊に重なるようにも思えてきてしまう。

 

ところで、海賊と言うと、"日本語には・・・海賊の一語しかない"が、"日本の外では昔から、二種類の海賊が存在した"そうだ。"ピラータは、非公認の海賊であり、コルサロは、公認の海賊"で、"背後には、国家や宗教が控えていた者たちを指す。"(『ローマ亡き後の地中海世界 1』P・3~4)ということだ。

 

つまり、北アフリカを拠点にしていたサラセンの海賊たちも、ひとたび召集がかかれば、トルコ海軍の一員になってしまうのだ。西方に領土拡大を目指すトルコにすれば、常時海軍を維持するよりは、船を操ることに慣れている海賊たちを時に応じて使う方が、はるかに費用負担も少なくて済むというのは利点であった。それにしても、よく考えたものだ。

 

また、海賊にとっても、トルコ海軍総司令官への道が開けているのは魅力であった。そのためにも、海賊業で名をあげることは大事であったから、仕事にますます拍車がかかったというわけだ。だからこそ、組織力、戦術に秀でた者が出てきたのだろうなと思える。

 

おまけに、"彼らの新しい宗教は、異教徒に害を与える行為を正当化していたのである。"(1巻P・32)と、いうのだから、海賊行為は、自分たちの正義を実証することに他ならないとよけいに張り切ったようだ。

 

ちなみに古代ローマには、
"海賊といえばピラータしか存在せず、それゆえ単なる犯罪者として厳罰に処していればよかったのが、「パクス・ロマーナ」時代のローマ帝国であった。"(1巻P・5)という。

 

更に言うとローマは、"帝政に移行する前の紀元前67年に・・・海賊業に関係していた人の全員を内陸部に移住させ、農地を与えて農耕の民に変え"たそうである。(4巻P・307)

 

また北アフリカも、ローマの属州であった頃は、現代からは想像もつかないほど緑豊かな耕作地帯だったという。だがそれも、ローマ滅亡後、住人の大半が他民族と入れ替わるにつれ、やがては海賊業に活路を見いだすしかない地になってしまったのだから、ローマと他民族との統治能力の違いを思わずにはいられない。


とはいえそれも、ローマの興隆から衰退までを通して見ていると、やはり、時代時代に傑出した指導者がいたからこそ可能だったと分かる。

 

"歴史は、個々の人間で変わるものではないと、歴史学者たちは言う。私も、半ば、というのならば賛成だ。だが、残りの半ばならば、変わる可能性はあるのではないか。"(4巻P・287)

 

確かに、この人物がもう少し生きていたらどうなっただろうと過去に想いを馳せる時など、もしかすると、"歴史は、個々の人間で変わる"こともあり得たのではないかと考えてしまうこともある。

 

しかし、ローマが消滅した後の地中海世界を中心に、当時大国と呼ばれた国々の君主たちを見ていると、どれもこれも器量が足らず、これではどう転んでも、個で歴史を変えるのは難しいなと感じさせられる。

 

例えば、各国連合の海賊対策においても、スペイン王カルロス一世の、"ヴェネツィアの利益になるような戦いはするな"と、連合軍総司令官となった自国海軍の傭兵隊長であるジェノヴァ人アンドレア・ドーリアにこっそり厳命しておいたなど、姑息もいいところだ。

 

結局、敗退することになるこの「プレヴェザの海戦」での奇妙な戦いぶりは、各国宮廷でももちきりの話題となったそうだ。一方、このおかげもあってか、勝利した海賊たちはすっかり勢いづいてしまったというのだから、ヴェネツィアが、これ以後スペインを信用しなくなったというのももっともなことだ。

 

だが、海賊を退治しきれないままでは、やがて自国に火の粉が降りかかってくるのだが、当のスペインはそこまでは見通せず、ジブラルタル海峡待ち伏せしていた海賊に、"金銀を主体とする新大陸の物産を満載した船が"、続けてごっそり奪われて初めて慌てる始末だ。

 

フランス王だって、ローマ法王が連合を組むことを呼びかけても、敵対していたスペインが参加するなら自国は非参加とか、もちろんスペインも同様で、フランスが出るならこっちは止めると、後世からすれば、まるで子どもの喧嘩で、まったく大局に立った見方ができないと嘆かわしい思いだ。

 

実際、どちらの領土も海賊に荒らされ、人々も多勢拉致されているのだから、協力を惜しんでいる場合ではないはずだ。但しこれも、現代の私たちは、遥か先の時代の人から同じことを言われかねない気はする。

 

ちなみに、常にフランスと争っていたスペインも、カルロスの息子フェリペ2世が即位して間も無く、

"経済的破綻のために戦争が続けられず、1559年スペインとフランスは、カトー・カンブレージの講和で戦争を終結させた。"(『クワトロ・ラガッツィ 上』若桑みどり著・集英社文庫・P・220)

ということだ。結局、ここでも戦いを終わらせたのは、"カネの流れが止まったとき"に他ならない。

 

それにしても、ただむやみやたらと領土拡大に熱意を傾けることなく、むしろ、いかに帝国を維持するかに着眼、そのシステムを構築しようとしたカエサルのような人物は、稀有であったことを改めて知る。

 

しかし、先々のことまで視野に入れた上でその場の状況を素早く判断、今どうすべきか速やかに決断を下すというのは、相当の力量が問われることだ。現代は、もはやカエサルを以ってしても、個を頼りの舵取りは相当困難ではないかと思える。

 

ところで、海賊たちのその後だが、

"1740年にトルコが「海賊禁止令」に国として調印し、1856年にあらゆる海賊行為の厳禁を宣言した、「パリ宣言」が成立。以後、少なくとも地中海世界からは、海賊は姿を消して今に至っている。"(4巻P・305〜6要約)そうだ。

 

『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍』は、いろいろな意味で、まことに示唆に富んんだ本であった。

『ハイドリヒを撃て』という映画の紹介に、アラララ??となってしまった件

『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍』全4巻(塩野七生著・新潮文庫)を読み、ローマ帝国が消滅した後、(国として海賊対策をしていたヴェネツィアは別として)地中海沿岸に住む人々が約千年という永きに渡って海賊に悩まされ続けたということを知るにつけ、最初にローマ帝国の構想を描いたユリウス・カエサルって、やはり凄いなと改めて考えていた。

 

そんな折、ラジオから流れてきたある映画評論家の方の言葉に、エッとなった。『ハイドリヒを撃て』という映画の紹介であったのだが、これは、第二次世界大戦中に、実際にチェコで起きたナチスドイツのナンバースリー暗殺を題材にしているという。

 

要人を暗殺されたナチスドイツは怒り狂って、報復として相当数のチェコ市民を無差別に殺害したそうだ。結局それが、暗殺計画の可否を問う議論として沸騰、現在に至っているとのことだ。ちなみに、この事を扱った映画は過去にも作られていて、今回はそのリメークという。

 

過去にそのようなことがあったのを知らなかった私は、話に興味をひかれ、一心に耳を傾けていた。すると、誰もが気づかないくらいのほんの一瞬、本が映しだされるそうで、その本はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』だという。映画を見る時は、ぜひそれに気づいてほしいということで、ちょこっとだが、シーザーとブルータスについての説明がある。問題はそこからだ。

 

"シーザーが独裁者になったら民主主義の危機というのでブルータスが、「ブルータスお前もか」のあのブルータスが立ち上がった・・・"との言葉に、ングググ?となってしまったのだ。しかも、ハイドリヒが暗殺された後何が起こったか、それを、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)亡き後の古代ローマがどうなったかに対比させているようなのだ。そして、そのところこそがこの映画の肝という。

 

それが更に、ングググを私の頭に引っかかったままにさせた。それでは先ず、ずっと昔に読んだきりの『ジュリアス・シーザー』を読むしかないなとなった。次いで、私のカエサルに対する理解が浅かったのかと、再度『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後[下]13』(塩野七生著・新潮文庫)を読み直してみた。

 

"カエサルの考えていたのは「帝政」という新体制であったが、それを「見たいと欲しない」彼らが見ていたのは、あくまでも初期のローマの政体であり、当時の他の君主国の政体でもあった「王政」であったからだ。・・・暗殺者たちの「善意」の行方を追っていくことにしたい。そうなると、プルタルコスの『列伝』のみに基づいたらしいシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』とは、相当に異なる展開になるのもいたしかたない。"(P・39)

 

とあるように、
シェークスピアの戯曲は、どれほど優れていようとあくまでも創作であって、歴史を丁寧に掘り起こして事実を示してくれているわけではないのだ。ましてこの戯曲は、題名こそシーザーだが、むしろアントニウスの演説が名高い。と言っても、この部分こそ、シェークスピアの創作だが。

 

ちなみに、「ブルータスお前もか」のブルータスとは、世に知られるマルクス・ブルータスではなく、今では、彼の従兄弟であり、カエサルの腹心の部下であったデキムス・ブルータスではないかと考える人が多いという。もちろん、真相は当のカエサル以外分からない。

 

こちらのブルータスは、カエサルの遺言状でも、"第一相続人オクタヴィアヌスが相続を辞退した場合の相続権は、デキムス・ブルータスに帰す。"(P・47〜8)とあるように、確かに信頼も厚い。自分の後継者にしてもよいと目していた人物が、暗殺者十四名のうちの一人であったなら、そりゃ「ブルータスお前もか」となるだろう。

 

ところで、ホロコーストに深く関わったとされるハイドリヒと、自分と戦った部族、あるいは自分と対立した相手にも寛容の精神で臨んだカエサルとでは、どうやったって同じ土俵には乗せられない。それなのに、ここが肝心なところという。ならば映画を観てみようと初日の第一回を目当てに映画館まで出向けば、満員であった。

 

すぐにでも確かめねばの気持ちが削がれ、結局映画は、盆休みが終わって、もう少し落ち着いてから観 ることにした。カエサルについて再考しているうちに、まあいいか、映画は映画、釈然とはしないが、監督のカエサルへの理解(本当はこの部分こそが肝心なのだが)を訊したところでしょうがないという気がしてきた。


それにしても、シェークスピアは偉大なばかりに罪作りだ。書かれていることを、史実と勘違いしてしまう人もきっとたくさんいるに違いない。アントニウスだって、ずいぶん立派な人物に思えてしまうではないか。

 

だが、軍事面でのアントニウスの能力を認めていたカエサルも、"戦時ではない平時の統治能力は認めなかったのである。"(P・52)というように、カエサル亡き後のアントニウスの行動をみていると、自分の後を託すに足る器ではないと見限ったことに納得がいく。

 

私だって、最近たまたまカエサルについて読んだばかりだったので、"シーザー・・・ブルータス・・・民主主義の危機"に、違和感を感じてしまったが、知らなければ何ということもなく、(ああそうなんだ)くらいで済ましていただろう。

 

とは言うものの、間違った解釈がそのまま流布されてゆくのはまずいのではないかと、『ローマ人の物語』を読んで以来カエサルびいきになっている私としては、また最初に戻ってしまう。つまるところ、僅かに知っている、あるいは知っているつもりのことを土台に話を進めてゆくのは、やっぱり危険だなと改めて考えさせられた次第。映画鑑賞はまだだけど、おかげでだいぶスッキリした。

幾つになってもオシャレがしたい〜でもある世代以上には着たい服がない現実に

本屋さんでパラパラと本を捲っていたら、"おばあちゃん大国'という文字が目に飛び込んできた。65歳以上の高齢女性の割合にびっくりしたが、確かに、街中にはおばあちゃんたちが溢れている感がある。しかもあと少しすると女性の2人に1人が50歳以上になるというから、おばあちゃん大国はますます拡大してゆくばかりだ。


もちろん、今や日本は人口の4人に1人が高齢者というだけあって、おじいちゃんたちもいっぱいだ。こちらも10年以内には、65歳以上が3人に1人になるという。日本が超高齢社会になるとはだいぶ前から言われていたが、分かっていたこととはいえ、いざそれがはっきりと見えるようになると、やはり結構なインパクトがある。

 

自分だけはその一員ではない気になっていたが、私だって紛れもなくその1人だ。それを強烈に突きつけてくるのが、自分に合う服が無いという現実だ。いつの時代もファッションは、若い人ばかりをターゲットにしてきた。ある世代以上は、着ることに関心がないと思われているのかと考えさせられるようなデザインと色ばかりで、これではちょっとな~と手が出ない。

 

それでも、自分にも辛うじて着られそうな物はないかと専門店やらデパートなどを回ってみるが、これは良いなと思うと、付いている値札に怯んでしまって、買う決心がつきかねたりして、なかなか難しい。コートのように出番が多い物ならともかく、この価格で何回着る機会があるのかと、頭の中で電卓を叩いてしまう。

 

実際、一回の着用が、相当割高になる服は今の私に必要ない。買う余裕があるとか無いとか以前の問題で、はっきり言うと、私の中では無駄に分類される。どうにかしてお金を減らしたいほどの身分ならともかく、(ただの一度もそんな御身分になったことが無いのは言うまでもないが)、逆に、極力無駄を排除するよう努めてきたので、明らかな無駄に財布は開けられない。

 

今はまだ、過去に買った服に助けてもらっていて、そこに、定番のベーシックなTシャツを買い足して、何とか乗り切っている。が、手持ちの数が少ない上に、そろそろ変え替え時が来ているというのに、気に入ったお手頃の服に出合えなくて、まったく悩ましい限りだ。井上陽水の『傘がない』の歌詞になぞらえると、"だけども問題は今日の服"といったところか。

 

正直な気持ち、自分の着たい服は自分で作ると胸を張りたいところだが、生来の不器用で洋裁は苦手ときているので、既製品に頼るしかない。父ちゃんの服だけでなく、デパートでは婦人服も売れなくなって久しいようだが、今の価格のせめて半分以下にしたら、もっと買う人が増えるのではないだろうか。

 

ファッション業界も、人口先細りの若い人に的を絞ることから方向転換して、おばあちゃん大国に群れなす高齢女性に、もっと選択肢を与えられる服を用意してくれると良いのにと願う。

 

探し物があって大きな本屋さんまで行ったついでに、デパートで服を物色しながら、いくら人数が多いとはいっても、私なんぞの世代はどこでもお呼びでないんだろうなと、肩を落とし気味であった。その上、かつて、売り場によっては、間違って入ってきちゃったのかなという感じの高齢女性を見かけたけれど、今の自分がまさにその時の女性なのかもしれないとふと気づき、その事実に更にガックリしてしまった。

 

装いは自分を表現する手段なのだから、服選びはとても大事だ。しかし、どこへ行けば、自分の気に入った服が、お手頃価格で手に入るのだろうか?それが問題だ。

500年以上も前にパッケージツアーを催行していたとは!〜『水の都の物語』

念願の聖地巡礼を果たしたミラノ公国の官吏サント・ブラスカが、帰国から三ヵ月後に出版した旅行記を中心に、当時のヴェネツィアの観光政策を絡めた「第九話 聖地巡礼パック旅行」がとても興味深い。"(『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 4』塩野七生新潮文庫・P・149~)

 

"ヴェネツィアは商人の国である。商人は営利が期待できるものならばなんであれ、それに関心を持つ。聖地巡礼は、異教徒に妨害される危険や長い旅路の不安がありながらも、西欧キリスト教徒の夢であり続けた。しかも、ヴェネツィアは船を持っている。彼らは、聖地巡礼を、営利事業として立派に成り立つとみたのであった。"(P・153)

 

サント・ブラスカが旅したのが1480年というから500年以上も前のことなのに、"ヴェネツィア人が国をあげて積極的に取り組んだ観光事業"は、現代でも真似をしたらいいのではと思うほど良く整備されていて、商売だからと分かってはいても、まさに、これぞ〈おもてなし〉の精神ではないかとさえ感じられる。

 

何しろ、遠くはイギリスやドイツ、フランスからの巡礼たちがヴェネツィアに到着してから出航するまでのお世話ぶりが、至れり尽くせりなのだ。

 

"早朝から日没まで、・・・ヴェネツィアを訪れる人がまず第一歩をしるす場所に、二人ずつ組んだ男たちのパトロールする姿が見られる。"(P・161)

 

ロマーリオと呼ばれる彼らは、ヴェネツィア共和国の国家公務員で、二人で、ドイツ後、フランス語、英語の三ヵ国を話せるように組まれていたという。"巡礼を見かけると「何かお役に立つことがありますか?」と声をかけ"、先ずは、巡礼の所持金に応じた宿の紹介をしてくれる。たとえ安い宿でも、各地区の衛生員が、一週間ごとに、敷布から台所まで検査する撤退ぶりなので、安心して宿泊できたそうだ。

 

また、翌朝には、旅の必需品の買い物に付き合ってくれるが、これは何も、トロマーリオたちが商店主と結託して、自分たちの懐を潤すためではない。"国家公務員の汚職収賄に対しては、死刑が、ヴェネツィア共和国の法であった。"(P・167)と、行政の目が誠に厳しいので、これは個人的な好意からなどではなく、あくまで職務であった。

 

商店主にしても、不良品や法外の値をつければ、巡礼専用の裁判所に訴えられてしまうので、旅の準備について何も知らない巡礼たちが、騙されたり、暴利を貪られることはなかった。

 

その後は、乗船までのほぼ一ヶ月間、教会や僧院での聖遺物巡り、役人の案内付きでの造船所、元首官邸見学などに加え、各種祭への参加で、巡礼たちは退屈する間も無く過ごしたという。

 

しかしこれって、本当に凄いシステムだなと思う。巡礼で出るといっても、半年もしくは地域によっては一年もかかるし、お金もかかるので、誰もがおいそれと腰をあげるわけにはいかない。人数が少なかったからこのように手厚くできたのかもしれないが、観光事業として成立したからには、当時の人口比からすればやはりそれなりの数の旅行者がいたに違いない。

 

でも現代のように、インターネットで宿泊予約ができるわけでもなく、自分の懐具合に応じた宿を見つけようにも、価格を記したガイドブックだって当然ながらない。そこへ、自分と同じ言葉を話すトロマーリオが現れればホッとする。きっと、怪しい者ではないことを示す身分証のような物も持っていたのかもしれない。

 

また買い物にしても、船旅も初めてなら、イェルサレムの気候及びその他の知識についても皆無な巡礼者にとっては、教えてくれる人がいなければ、一体何を用意すればいいのか見当もつかなかっただろう。買った品物は、出航の日まで店で預かってくれたうえ、当日船まで届けてくれるのだから、まったく有り難い限りだ。荷物の心配もせず、身軽に、祭やあちこちの見物に勤しんでいられる。

 

もちろん航海中も、船には"武装兵や医者の乗船が義務づけ"られていたりと、無事にヴェネツィアに戻るまでの配慮は怠りない。もし、巡礼が旅の途中で死ぬようにことがあれば、それに対する規定もあって、死者の遺物と共に、残日数に応じた旅費の返還もなされたそうだ。それには、「巡礼事業法」の存在が大きかったという。

 

"聖地巡礼という、中世における最大の観光事業の王座を、二百年もの間、守り抜いた理由である。ライヴァルのマルセーユは、結局、完全に水をあけられたままで終わる。"(P・172)

 

というように、フランス船にはこのような法がなかったため、フランスから乗船する方が便利な地域ばかりか、当のフランス人でさえも、わざわざアルプスを超え、北イタリアを横断する手間をかけてまでしてヴェネツィアにやってきたそうだ。

 

"巡礼者の帰国談が、当時では最高の宣伝であることを熟知していた、ヴェネツィア式商法の成果であったと思うしかない。"(P・173)

 

つまり、口コミが有効だということをよく分かっていたということか。巡礼者たちだって生命を預けるわけだから、自分たちの旅行を、より信頼できる業者にお願いしたいのはもっともなことだ。

 

それにしても、どうすれば商売として上手くゆくか、人の心理もよく研究していると感心するばかりだ。しかもそれは客ばかりか、対応する側にも当てはまる。国家公務員の汚職収賄に対する罰が死刑とはこれまたびっくりだが、ここまで厳しくしなかったら、人がどう動くかがよく分かっているとしか思えない。

 

この項以外にも、人の良識に委ねることはしないで、違反者には厳罰で臨む的記述が何度かでてくる。自分だけを利するような行為が発覚したら、大概は、凄まじい額の罰金が科せられたりする。共同体よりも個を優先させるようなことには、すぐに"行政指導"が入ったようだ。

 

人の良心という当てにならないものを徹底して排除したのが、一千年という永きにわたってヴェネツィア共和国が続いた一因にもなっているのかなとも思う。

 

"11世紀の昔からすでに、西欧では有数の観光国であった"(『海の都の物語 6 』P・96)というヴェネツィアは、現在でも世界中から人を集め続けているが、自前の物は塩と魚しかなかったというヴェネツィア人の、知恵と才覚によって築かれた過去の大いなる富が、現代をも尚潤し続けているということか。

 

結局、国としては消滅してしまったが、それでも、ヴェネツィアはまったく大したものだと感心しきりだ。そして、全6巻読み終えた今、改めてこの水の都を訪ねてみたくなる。

 

* ちなみに、18世紀になってから観光がどのように変化していったかは、「第十三話 ヴィヴァルディの世紀」(『海の都の物語 6 』P・95〜)に書かれている。

フン族から逃れて沼沢地に移り住んだヴェネツィアの民〜『海の都の物語』

"「アッティラが、攻めてくる!」「フン族がやってくる!」"(『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 1』塩野七生新潮文庫・P・18)"と、西ローマ帝国末期に、蛮族中の蛮族と恐れられたフン族から逃れようと沼沢地に住むという選択をしたことから始まったというヴェネツィア共和国に、そうだったんだとこちらもその冒頭の描写から興味津々だ。

 

何しろ、その凶暴さで知られた蛮族は、抵抗しようがしまいが、財宝を差し出そうが、情け容赦なく皆殺しにしたという。結局、逃げこむ場所などどこにもなく、葦が繁っているだけの干潟に移り住むことにしたそうだ。

 

ところで、このフン族の顔についての記述が同じ著者の『ローマ人の物語』([40]P・26、[42]P・96)にあるのだが、同時代人から見たというその描写には笑ってしまった。

 

"背丈は低いが頑丈で、動作がきびきびとすばしこい。彼らの顔は人間の顔というよりも平べったいだけの肉の塊であり、二つの黒い点が動いていることでそれが両眼とわかる。"とは、またずいぶんな言われようだが、怖ろしいフン族というイメージからは程遠く、だいぶマンガチックだ。

 

それとも、古代ローマ人の目には、"二本足で歩く人間というよりは野獣"と映っただけに、とても人間とは思えぬその容貌だからこそ、恐さが増したのだろうか。

 

それにしても、顔が平面的だの、目が小さいだのとは、かつて日本人もこのように形容されたのではなかったか。フン族の出自ははっきりとはしていないそうだが、匈奴説もあるということから考えれば、同じモンゴロイドとして日本人と似ていても不思議ではない。

 

ヨーロッパ中を恐怖に陥れたフン族も、アッティラが亡くなった途端に分裂してしまう。しかし、フン族がいなくなったからといって、ローマの覇権下で平和を享受していた時代がかえってくるわけではない。自分たちを守ってくれるはずの国など、もはや風前の灯に等しい。

 

結局、自分たちの安全は自分たちの手で守るしかないと、住まいには適さない、だからこそ敵も攻めにくい場所に一から町を築き上げ、その後海洋国家として一千年栄えたのだから、ヴェネツィア人たちの選択は正しかった。

 

しかし、読み進むにつれ、商売のやり方から共和国の運営まで、ずいぶん上手い仕組みを考えたものだとまったく感心してしまう。当時最大のライバルであったジェノヴァとの比較が、殊に興味深い。

 

ヴェネツィア人と違って個の意識が強いジェノヴァ人は、海運業が上手くいかないとなると、何のためらいもなく海賊になってしまうという。むしろ、本業よりは海賊業に転じて財を成した者もいるそうだ。

 

また、ヴェネツィアとは、双方ともが経済的優位に立とうと戦闘を繰り返したというが、ジェノヴァの艦隊を率いる提督についての記述には、まったく笑ってしまう。

 

"大胆なジェノヴァ人の中でもとくに大胆不適で有名であったグリッロという名のジェノヴァ提督が、提督というよりも海賊の親玉と呼ぶほうがふさわしい男であったが、"『ヴェネツィア共和国の一千年 3』P・58)

 

他にも、

"一気にライバルを蹴落とそうと前代未聞の大艦隊を作り、出航したはいいけれど、ジェノヴァ艦隊の提督ドーリアが、自分が不在の間に本国政府を反対派が狙うのを怖れてジェノヴァに引き返してしまったという。"(P・67~68)

 

この謎の行動は、戦いの行方を見守っていた他国をあきれさせたということだが、後世の私たちから見ても、まったく何やってるのという感じだ。結局、このような内部抗争に終始していたがために、天才的な航海術をものにしていたジェノヴァが、地中海の覇者になれなかったというのも頷ける。

 

また、ジェノヴァ人は、"商用であってもこれほど多くの旅行者を出しながら、その中の誰一人、旅行記を書き残した男はいない。・・・同国人であろうと他人に知られ、それによって利益が減るのを怖れて、徹底的に秘密を保とうとしたのである。"(P・63)

 

ちなみにマルコ・ポーロは、ヴェネツィアジェノヴァとの戦いに敗れた後、ジェノヴァの牢屋に入れられていた間に、旅行記(口述)が作られたそうだ。

 

"ヴェネツィアジェノヴァも、海洋貿易によって大を成した国である。輸出も輸入も、ほとんど同じ品であったのだ。それでいながら、生き方にこれほどのちがいが出たのだから興味深い。"(P・31)

 

ところでこの違いは、やはり沼沢地に移り住まなければならなかったヴェネツィア人たちの国の成り立ちが大きく影響しているのだろうか。中世で、"国家に対する忠誠、つまり共同体意識が強かったという点で、実に珍しい例であった。"(P・31)そうだから。

 

それにしても、ヴェネツィアジェノヴァも一人の人間の如く、そのイメージが目の前に浮かんできて、国というのは、結局そこに住む人々の総体だということが本当によく分かる。

 

また、ヴェネツィア共和国という一国の歴史ばかりか、当然ながらその国を取り巻く他国との関わりで、当時の地中海世界を中心とした情勢も自然と頭の中に入ってきて、ああこういうことだったのかと、いつの間にか世界史のおさらいまでできてしまう。全6巻のうち3巻まで終えたが、とっても読み応えがあって面白い。

自分なりのスタイルを持てるかどうかが人の生き方を決定づける〜スティリコの場合

ローマ人の物語 ローマ世界の終焉[下]43』(塩野七生新潮文庫)までを、ユリウス・カエサル以前の7巻を残して読み終えた。

 

その直後私の胸に去来したのは、もちろん全員がそうだったとはいえないが、概して、皇帝というのは大変な仕事だったんだなということだ。またそれは皇帝ばかりではなく、帝国末期の実質お飾りのような皇帝を、右腕として支え続けた側近にも、なぜそこまで忠誠を尽くしたのですかと尋ねたくなるほどだ。そして結局、これらローマ人の物語を通してつくづく思うのは、人の生き方についてだ。

 

2千年という時を遡って古代ローマまで行き、会ってみたいと思わせる人は何人かいるが、その筆頭がユリウス・カエサルだ。また、同時代人からは評判が悪くも、後世になって俄然評価が上がった2代目皇帝ティベリウスにも興味が湧く。

 

それに、個人的な魅力からは程遠いが、甥の死で、本人だけでなく周囲の誰もが想像だにしなかった皇帝の地位に据えられた4代目皇帝クラウディウスや、帝国末期(4世紀)にこれもひょんなことからお鉢が回ってきた皇帝ユリアヌスの意外な健闘ぶりに、人には与えられた役目をこなす力があるのだなと感心する。

 

殊に、 帝位を簒奪するつもりなら能力も十分にあり、かつ部下の信頼も厚かったというスティリコという人物に、なぜ皇帝ホノリウスを見捨てずに奮闘したのかと、前皇帝に頼まれたからというだけでは今ひとつ納得できない思いが残る。


"紀元395年に皇帝テオドシウスが病死した後、18歳のアルカディア(東ローマ帝国皇帝)と10歳のホノリウス(西ローマ帝国皇帝)が託されたのは、先帝にとって"有能で忠実な右腕であったスティリコ"(『ローマ人の物語 ローマ世界の終焉 [上]41』P・27)であった。

 

それから10年以上経っているというのに、帝国の西方を任されたホノリウスは、残されている像を見るだけでも一目瞭然のダメっぷりで、24年の在位の後亡くなってから、"人の役に立つことは何ひとつしなかった"と評されるのも頷ける。だが、お気楽さんは皇帝ホノリウスだけでなかった。

 

"皇帝とその周辺はオリエントの専制君主をまねて贅沢になる一方、高位高官たちも職権を乱用して蓄財に走り、キリスト教の司教さえも派手な生活ぶりが良識ある人々の眼をそば立たせていた時代、スティリコの清廉潔白は、彼に反対する人々さえも認めざるをえない美徳と讃えられていたのである。・・・自分の食事よりも、兵士たちの食事のほうに気を配ったのである"(P・186)

 

帝国末期、国力がかなり低下している中で、押し寄せてくる蛮族から国を守ろうと頑張っているのは、スティリコとその配下の兵士だけのようにも思える。

 

"しかし、人間とはしばしば、見たくないと思っている現実を突きつけてくる人を、突きつけたというだけで憎むようになる。"(P・201)

 

スティリコは、アラリック率いる西ゴート族といわば傭兵契約のようにして同盟を組もうとしたことが発端となって、ついには逆賊の汚名を着せられ、処刑されてしまう。ちなみにその半年後、西ゴート族による凄まじい"ローマ劫掠"が起きる。


しかし、ヴァンダルという北方蛮族の父とローマ人の母という半蛮族であったスティリコは、"起たなければ破滅する"と分かっていても、忠誠を誓った皇帝に弓を引くことはしなかったのはなぜだろう。

 

"今兵を挙げようものならそれは即、ローマ帝国を倒すことになる。そしてそれは、「ローマ人」ではなく、「蛮族」として行動することを意味していた。これが彼には耐えられなかったのだ。四十八年間の「ローマ人」の後で「蛮族」にもどることが、耐えられなかったのであった。"(P・217)

 

結局それは、"人間には絶対に譲れない一線というものがある"と著者が言うところの、その人の核を成すもの、それがスティリコを律していたのだ。

 

"もしかしたら人間のちがいは、資質よりもスタイル、つまり「生きていくうえでの姿勢」にあるのではないかとさえ思う。そして、そうであるがゆえに、「姿勢」こそがその人の魅力になるのか、と。・・・他の人から見れば重要ではなくても自分にとっては他の何ものよりも重要であるのは、それに手を染めようものなら自分ではなくなってしまうからであった。"(P・217〜8)

 

結局、自分なりの"スタイル"を持てたかどうかで、人の生き方が決まってくるのだと思う。だから皇帝たちの統治の仕方にも、それが表れてくるのだ。また、この"スタイル"は、人の上に立つものばかりではなく、いつの時代の誰にとっても、持てるか否かで、その人が輝くかどうかが決定的に違ってくるような気がする。

 

古代ローマの誕生辺りはまだ未読だが、ともかく非常に読みごたえがあって面白かった。文庫本で全43巻に恐れをなして手に取らずにいたが、もっと早くに読んでいればよかったと思う。それも、旅する前であったら尚よかったのにと残念だ。でも逆に言えば、なぜメリダにこれほど見事なローマ遺跡がと思ったからこそ興味を持ったのだから、私にとっては順当かもしれない。

 

ところで今度は、西ローマ帝国消滅の頃から始まる、『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』(全6巻)を読みだしたところだが、こちらも楽しみだ。