照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

ヨルダン土産のデーツはちょうど干し柿のような味〜美味しい

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 デーツ(ナツメヤシ) 箱と共に

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デーツ

 

ヨルダン土産のデーツ(乾燥ナツメヤシ)、私は初めて食べたのだがとっても美味しい。この味には覚えがあるが、はて何だったかなと2つ目を口に入れているうちに、そうだ干し柿だと思い出した。ねっとりとした濃い甘さだけれど、この自然の甘味は私好みだ。でも、さすがに3個も食べたら十分満足した。

 

ちなみにデーツについて調べてみると、ずいぶん栄養価が高い。嬉しいことに、繊維や鉄分も豊富だ。しかも、あのオタフクソースにも使われているという。また、こちらではオタフクごちそう便なるもので、デーツの通販もやっているだけあって、デーツについても詳しい。というわけで、オタフクソースさんのホームページから引用させて頂くと、

 

"デーツは、イスラム教の聖典コーランに「神の与えた食物」、旧約聖書には「エデンの園の果実」と記載されており、ハムラビ法典に記載されている果実もデーツであると言われています。紀元前数千年も前から灼熱の地域で暮らす人々の健康を支えてきました。"
(デーツとはより)

 

「神の与えた食物」とまで称されるのだから、デーツは、古くからかなり重要な位置づけであったことが窺える。"灼熱の地"でも、ちゃんとその地にあった、しかも栄養がつまった植物が育つというところが、まさに神の恵みなのだろう。また、生で食べても美味しいらしいが、こればかりは、旬を狙って現地に行くしかなさそうだ。

 

"デーツは砂漠の過酷な条件で育成します。その生命力の強さから「生命の木」と呼ばれ、栄養価の高い果物です。鉄分、カルシウム、カリウムなどのミネラルや食物繊維が豊富に含まれ、その含有量は果実の中でもトップクラスです。"(デーツの力より)

 

とあって、ずいぶん優れものの食品なのだと、改めて感心してしまう。結局この日は、デーツが気に入り、後でもう数個つまんでしまったが、高価な干し柿同様、もっと大事に食べればよかったと反省。


ところで、ペトラ遺跡(ヨルダン)やエルサレム(イスラエル)を旅してきたのは次男だ。二千年前の遺跡と聞き、もしや古代ローマとも関係があるのかと思ったが、それ以前に作られたものだという。

 

ちょうど先月、古代ローマヴェネツィア及び地中海世界について読み終えたばかりだが、ヨルダンとかペトラと聞いてもピンとは来ず、エルサレムの近くと言われ、もう一度本を開いて、ようやく位置関係が掴めた次第。ついでにポンペイウスの項を読み返せば、確かに、ペトラに攻め入ったとある。ちなみに、ローマの属州になってから作られた劇場は、今も現存しているそうだ。

 

また、エルサレムで撮った写真(ゴルゴダの丘までの「悲しみの道」等)を、ここでキリストがつまずいたとか、汗を拭ってもらったとかの説明を聞きながら見ていると、500年以上も前、ヴェネツィアが催行した聖地巡礼パックツアーのことなどが思い出されてくる。飛行機で気軽に行ける現代に比べ、当時の旅の困難さを思えば、感激もまたひとしおであったに違いない。

 

そして、不意に、聖地巡礼とはこういうことかと、昨今の人気アニメや映画の舞台となった場所を訪ねる旅に納得する思いであった。これまでは、そのようなニュースに接するたび、何のためにわざわざその場所を見に行くのかが今ひとつピンとこなかったのだが、多分、実際にその場に立って思いを共有するという、その経験が大事なのだと解る。

 

事実か、作り事の世界かには関わらず、追体験することで、対象とする人物、あるいはキャラクターへの思いを深めていくのだろう。例えばゴルゴダの丘までの順路にしたって、まったく関心のない者からすれば、誰がどこでどうしたか等は、聞いた場限りの事になってしまうだろう。だが、そうでない人にとっては、その労苦に想いを馳せ、教えを新たに心に刻むことに繋がるのかもしれない。おまけに、今やレンタル十字架まであるという。

 

そういえば、『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』を読んでいた時、なぜそれがと思うような様々な聖遺物があることにちょっと驚いたが、それと同様に、キリストに因む品、まして十字架は、もしそれが商売上の目的からレンタルされているとしても、ぜひとも背負ってみたくなる物なのだろうなと想像できる。

 

しかし、イエス・キリストについてその生涯を知らなければ、各国の美術館や教会に飾られている数多くの宗教絵画も、あの有名な誰それの絵かと、描いた人の技量にただ感嘆するのみであって、肝心な絵の題材にまでは思いが至らずに終わってしまいかねない。それよりも、ある程度の基礎知識を持って絵の前に立てば、見方がぐんと広がるだろう。

 

そして、更に舞台となった地を訪ねたら、まさに聖地巡礼だが、これまで見知った絵画に対しても、別の感想が湧いてくるかもしれない。と、こんなことを言う私だって、ピーテル・ブリューゲル描く『ベツレヘムの戸籍調査』に、実際のベツレヘムの地を重ね合わせることはなかった。

 

でも今回、エルサレムの写真を見て初めて、私の中でそれぞれ独立していた絵画が、ようやく一連の話に結びついた気がする。今まではどうしても、物語は単なる題材としてしか感じられなく、絵は絵としてのみ見てしまっていた。

 

所詮絵は好みの問題、好きに見ればいいよと長いこと思っていたけれど、やはり、背景や約束事を知って見るのとでは、感じ方もだいぶ違ってくるかなと、遅ればせながら考えた次第だ。

 

ところで、イスラエルキリスト教だけでなく、ユダヤ教イスラム教の聖地でもある。これらについては、『ローマ人の物語』など合わせて読むと、より良く理解できる。

 

デーツから、想いはさまざまに飛んでしまったが、そのデーツの実る地からユダヤ教が起こり、そしてキリスト教イスラム教へと派生したことを考えると、更にいろいろな方面へと興味が広がってゆきそうだ。しかしお土産も、私がちょうど本を読み終えるのを待っていたかのように届き、まったくタイムリーであった。

 

噂に惑わされず、さらに惑わす側にならないためにはどうすべきか

寺田寅彦が、関東大震災が起きた翌年の1923年9月に、流言蜚語の伝播を燃焼の伝播になぞらえ、それらが広まることへの責任は市民自身にあると書いていたと知り、早速その文を読んでみた。

 

ちなみに、寺田寅彦って誰?と思われるかもしれないが、正直私も、詳しくは知らない。明治生まれの物理学者で随筆家、夏目漱石の門下生であったことから、『吾輩は猫である』の水島寒月及び『三四郎』の野々宮宗八のモデルと言われている。それに加え、作家安岡章太郎の親戚ということで、父章を題材にした随筆にその名が出てくるのを覚えているくらいだ。

 

つまり、著書の一冊も読んだことがなく、自分の好きな作家の文章を通してその人物を知った気になっているだけだが、それでも、寺田寅彦と聞くとなぜか親しみを感じる。と、何の足しにもならない話はさておき、"伝播"について引用させて頂く。

 

" 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。


それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。(寺田寅彦『流言蜚語』青空文庫より)

 

ごく普通の、多分善良なる人々は、背後に隠された意図など疑おうともせず、ただ流れてきた言葉を鵜呑みにして、まして自分が、"次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質"となっていることなどまるで意識することなく、伝播する一人になってゆくのだなと改めて考えさせられる。

 

だから遥か二千年前から、"いつでもどこでも有効であった作戦"と『ローマ人の物語』の著者いうところの、噂を広めて政敵、あるいは邪魔者の失脚を計るということが繰り返し行われてきたのだろう。そして、その"有効性"に頼ろうと試みる状況が今なお変わらないのは、ここ数ヶ月の国内での報道を振り返れば明らかだ。

 

ちなみに、紀元前のローマでの一例をあげると、市民目線に立ち、農地改革に取り組んだガイウス兄弟の場合も、兄ティベリウス、後に弟ガイウスが、元老院の噂作戦にやられている。本音は、自分たちの利益に反する改革など以ての外とスクラムを組んだ元老院だが、そんなことはおくびにも出さず、市民が反感を覚えるような噂を巧妙に流したそうだ。

 

"護民官ガイウスの政策は、票集め、人気取り政策、権力の集中、権力の私物化であるという声を広めた。現代イギリスの研究者の一人は、次のように書いている。「無知な大衆とは、政治上の目的でなされることでも、私利私欲に駆られてのことであると思いこむのが好きな人種である」

好きなのは無知な大衆にかぎらないと、私ならば思う。これより七十年後の話になるが、ローマ史上最高の知識人であり、私の考えでは最高のジャーナリストでもあったキケロでさえ、この種のことが「好きな人種」の一人であったのだ。要は、教養の有無でも時代のちがいでも文化のちがいでもない。目的と手段の分岐点が明確でなくなり、手段の目的化を起こしてしまう人が存在するかぎり、この作戦の有効性は失われないのである。"(『ローマ人の物語勝者の混迷 [上]6』塩野七生新潮文庫・P・90~91)
とおっしゃる。

 

ちょっと解り難いが、"この種のことが「好きな人種」"は、"教養の有無でも時代のちがいでも文化のちがいでもない"となると、"媒質"になるのを避けるためには、結局、何事も自分で考え、確かめるのを習慣づけるしかないなと思う。

 

しかし厄介なのは、噂は大なり小なり、なぜかこちらが乗りやすいタイミングで耳に入ってくるということだ。まったく関心のかけらもなければ、たとえ巧妙であったにしろ、聞いてもただのフ~ンで終わってしまう。

 

だが、多少なりとも心に引っかかる時は、自分はなぜそう感じるのか、まず自分の精神状態をじっくり観察する必要がある。と同時に、相手(個人でももっと大きな規模でも)は、何のためにそのようなことを言うのだろうと考えてみることも大事だ。

 

知らずに流言飛語の"伝播"を担うのは嫌だが、かといって、話の真偽をいちいち深掘りするのも面倒となれば、信長の時代、日本にやってきた巡察師ヴァリニャーノ言うところの、"日本人は天候とかその他のことを語り"(若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ 』上巻より)を、そのまま受け継ぐよりないかな。

 

でも、それではあまりにつまらなさ過ぎる。まして同じような気候が続いたら、すぐにネタ切れとなる。それに、誰かと言葉を交わすことがなくても、ニュースの類は始終目に触れる。おまけに、ネット上や紙媒体の書籍はもちろん様々なメディアには、正反対の意見が溢れていて何が何やらという感じで、参考にしていいものやら余計に悩む結果となる。

 

それでも、

"科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う"(流言蜚語より)

 

と、寺田寅彦も言うように、たとえ手間でも、"科学的常識"なども駆使しつつ、精一杯頭を働かせ、あるいは、自分が納得いくよう、根拠となる元まで遡って調べたり、考えたりするしかないだろう。

 

噂に惑わされず、また惑わさずを実行するのは、流れの早い小川に、ゆらゆらしつつもしっかり立っているイメージだ。小川だからといって油断していると、足をすくわれかねない。踏ん張っているのも大変だが、流されないためにはそうするしかない。

 

 

 

 

 

スキピオ・アフリカヌスにはつい肩入れしたくなる〜『ローマ人の物語』

未読であった『ローマ人の物語 』(塩野七生著・新潮文庫)のうち、「ローマは一日にしてならず(上・下)」と「ハンニバル戦記(上・中・下)」が面白くて、一気に読んでしまった。

 

象を連れたハンニバルのアルプス越えは聞いたことがあっても、何のためにそんな無謀とも思えることを決行したのか、どこからどの道筋を進んだのか等、これまで関心すら湧かなかったそれらのことに、グイグイのめり込むようにページをめくっていた。

 

ハンニバルの戦術に感心するよりも、会戦ではまったく歯が立たないローマ軍にやきもきしてページを飛ばしたくなったり、でも、やがてハンニバルを破ったことから後にアフリカヌスという尊称で呼ばれることになる若者スキピオ(プブリウス・コルネリウススキピオ)の出現に気を取り直してみたりと、すっかりローマびいきになってしまった私は、話の進み具合に感情面が振り回されっぱなしだ。

 

ところで、その晴朗さで、出会った誰をも惹きつけてしまうというスキピオは、戦術もハンニバルのやり方を踏襲しているだけあってなかなかの知将だ。

 

"スキピオは、戦術家としてならば、ハンニバルに大きく一歩を譲ったかもしれない。だが、政治家としてならば、彼のほうが上であったと私は思う。"(『ローマ人の物語 ハンニバル戦記 [下] 5』P・134)
と、著者もいうように、交渉ごとにも優れていたらしい。

 

そして、第二次ポエニ戦役以来長いことローマを悩ませてきたそのハンニバルを、ザマの会戦で破る。しかも、元老院では反対されたが、適地カルタゴに乗り込めば、南伊に陣取っているハンニバルを誘い出せると読んだスキピオの目論見が当たったのだ。

 

その後、シリア戦争にも担ぎ出され、(10年の間を置かなければ執政官になれない決まりにより、兄ルキウスが執政官となりスキピオは参謀として)ローマ側が勝利を収めた。

 

なかなかの人物であったらしいスキピオも、

"他者よりも優れた業績を成しとげたり有力な地位に昇った人で、嫉妬から無縁で過ごせた者はいない。・・・嫉妬は、隠れて機会をうかがう。"(P・136)
ということで、帰国後裁判にかけられる。

 

表向きは、対シリア戦のローマ軍最高司令官である兄ルキウスへの、使途不明金の追求ということであったが、告発側の目標が自分の失脚であることをスキピオは知っていたという。その背後にいたのが、反スキピオ派のリーダー格である、マルクス・カトー(曽孫のカトーと区別するため、後年は大カトーと呼ばれた)であった。

 

読みながら、後に、ユリウス・カエサルにことごとく反対するカトーのことなども思い出され、まったくカトーの家系は困ったものだとため息をつきたくなる。だが実際私は、どちらのカトーのことも、この一連の『ローマ人の物語』で知る以外、何も知らないのだ。にも関わらず、カトーに反感を覚えている。

 

だが著者は、
"過去よりも未来を見る傾向が強かった"スキピオと、"過去を常に振り返っては今のわが身を正すタイプ"のカトーとでは、

 

"この両人の対立は、あらゆる面から、宿命的ではなかったかと思われる。
そして、カトーよりもスキピオに好意をもつ私のような者には実に残念なことだが、スキピオの死のわずか四年後に・カトーの心配は当たってしまうのである。"(P・156)

とおっしゃる。

 

ここまできて、自分がスキピオに肩入れしたくなるのも、著者の観点に沿っていたからだとようやく分かる。そして、一人の考えに、このようにどっぷりと染まってしまってはアブナイなとも思う。様々な資料を丁寧に読み込んで、かつ史実に忠実だとは思うが、書くに当たっては、自分なりの見方で新たに組み直しているはずだ。

 

だから挿入されるエピソードも、書き手によって異なるだろう。何をどう取り上げるか、そこには当然好みが反映される。読み手もまた、その好みにかなり左右されるはずだ。歴史を題材にした読み物にも同様のことが言えるが、読み手は常に、(いや待てよ、他の見方もあるかもしれない)のハテナマークを頭の片隅におく必要があるなと思う。

 

ちなみにエピソードといえば、ザマでの会戦の数年後、偶然にエフェソスで出会ったというハンニバルスキピオとの会話も興味深い。

 

我々の時代でもっとも優れた武将は誰かと問われたハンニバルは、一番目にマケドニアアレクサンドロス、二番目にエピロスの王ピュロス、三番目に自分の名をあげたという。その答えに思わず微笑したスキピオが、"「もしもあなたが、ザマでわたしに勝っていたとしたら」"(P・82)と聞いたところ、自分が一番目にくると答えたそうだ。

 

このハンニバルという人物についても、もっと知りたくなるが、残念なことに資料があまりないそうだ。

 

ともあれ、この本は文庫で全43冊という大作だが、単なる歴史書を読むよりもずっと面白い。おまけに地理、歴史はもちろんのこと、人心掌握といった心理面から政治的なことまで幅広く網羅しているので、勉強するつもりなどなくとも自然に学べてしまう。気になる巻だけでもぜひどうぞ。

 

 

 

勉強に気乗りがしない、もしくはすぐに飽きちゃう場合〜この方法をぜひどうぞ

自宅では気が散るから図書館で勉強しようといざ出かけてはみたものの、何だかイマイチ気乗りしないなぁ、もしくは、30分くらいで早くも飽きちゃったなという時、気分転換とばかりにスマホをのぞくのは絶対にダメ。

 

結局、机に向かっている時間の大半をスマホいじりで過ごしてしまうことになる。さもなければ、スマホの次は眠気が襲ってきて、結局、ノートを広げただけで終わってしまうことにもなりかねない。これは、私が図書館で、周りの皆さんを見て日頃から感じていることだ。

 

ではどうすればいいか。先ず、ノートに、テキストを一字一句ゆっくりと書き写してゆく。できるだけ丁寧に、きれいな字を書くよう心がけてみる。勉強という感覚ではなく、文字に意識を集中させて、ある程度の時間が経過するまではそれを続ける。文字を追っているうちに、内容も頭に入ってくるようになるから不思議だ。そして気づけば、勉強そのものにすっかり集中しているはずだ。


どこをどう探してもやる気なんて見つからないから困っているのに、そんなの無理と決めつけずに、とりあえず試してみてほしい。私は今、スペイン語の独習に勤しんでいるのだが、ちょっとやる気がでないなという時に、偶然この方法を思いつき、自分にはとても効果があったので、もし誰かのお役に立てればと披露してみた次第。

 

勉強している科目によっては多少自分なりの工夫が必要だと思うが、大概の場合に当てはまると思う。力を入れずに、ゆっくり丁寧に書くというところがミソだ。私の経験からすると、脳は、負荷が掛かることを避けたがる傾向があるけれど、(これは勉強ではありませんよ、ただ文字の練習ですよ)と脳を油断させると、拒否反応がほぼ緩和されるようだ。

 

脳科学には無知な私なのであくまで勝手な思い込みだが、やる気がでないというのも、エネルギーを使いたくない脳が抵抗しているのではないかと、推測している。だから、(脳が疲れることなんて何もしませんよ、とっても簡単なことだけですよ)と、いわばフェイントをかけるのだ。

 

これが功を奏すると、1時間半か2時間くらいすぐに経ってしまう。そうしたら、5分か10分ちょこっと休憩。この時も、スマホを触るのは厳禁だ。せっかく高まった集中力が途切れて、また最初からやり直しだ。かといって休まずにいると、頭が疲れすぎてしまうし、血流も悪くなるので、メリハリをつけるためにも休憩は必要だ。

 

トイレへ行ったり、書架の間を歩いたりと身体を動かしてみる。ついでに、椅子に座ったまま、左右に身体を捻ったり、上体を後ろへ反らしたり、軽く頭を揉み解したりしてみる。もちろん、周りに人がいる場合は、ぶつからないように配慮が必要だ。

 

ある時、私がこのストレッチをしていると、隣に座った中学生くらい女の子も、効き目がありそうに思えたのか、こちらの真似をして首回しなどしていて、微笑ましかった。勉強を持続させるには、凝りを取り除いて血流を良くしておくことも重要なので、これはおすすめだ。ちなみに、その日の凝りは、その日のうちに解消が私のモットーだ。

 

また、図書館だから静かということもなく、高らかに鼻をすすりあげる人を筆頭に、耳触りな音を立てる人は結構多い。そんな場合は、それらの音に合わせ、(ウルセッ、ウルセッ)と合いの手を入れるように心の中で呟いてみる。決して声を出さずに、例えば、「ズルッ」に対し(ウルセッ)とただ同じ言葉を繰り返すだけだ。これが、意外に効果的で、いつしか雑音も気にならなくなる。

 

 ところで、そんなに勉強好きだったのと感心するに及ばず。決して自慢できることではないが、身につくまでは人の数倍も掛かるので、それなりに時間が必要なだけだ。道遥かなりかな。

 

西洋音楽を学んでいた天正遣欧使節の少年たち〜『クアトロ・ラガッツィ』

エヴォラ(ポルトガル)のカテドラルでパイプオルガンを目にした時、日本語の案内板には、確か、日本から派遣された少年使節が「聴いた」とのみあったはずだが、その後ブログ等で、この楽器を演奏したという記述をいくつも見かけ、それは本当だろうかとほとんど疑う思いであった。

 

だいたい、400年以上も前の日本で、西洋の音楽や楽器に触れる機会が果たしてあったのか?ただ見たとか、演奏に耳を傾けたというのなら分かるが、弾いたとなると、いつ、どこで習得したのか、それがずっと気にかかっていた。

 

それが先月、『クアトロ・ラガッツィ 天正遣欧使節と世界帝国 』上・下巻(若桑みどり著・集英社文庫)という本を知り、何か分かるかとの思いもあって読んでみた。

 

著者は、一六世紀のカトリックの東アジアの布教について調査することになり、ヴァチカン秘密古文書館、次いでウルバヌス八世大学付属図書館で、最初はキリシタンの美術について調べていたそうだ。そのうち、天正少年使節についての文書がとても多いことに気づき、それを読んでいるうちに強く引きつけられ、後年、この本を書くに至ったという。

 

しかし、日本の少年使節について書くにも、日本国内の資料は当然ながら、当時の宣教師たちが本国へ送った報告書をはじめとして、各国の研究者が書いた本まで、幅広く丹念に読み込むというのは、相当大変だったろうと想像するだにクラクラしてくる。

 

だがそのおかげでこちらは、信長、秀吉を中心とした当時の国内情勢から、イタリア、ポルトガル、スペイン各国の事情に加え、仏教やキリスト教についても、噛み砕いて教えてもらっているかの如しだ。とりわけ、信長が暗殺された背景への考察には、確かにそうかもと興味を誘われる。

 

そしてところどころに、これは是非とも言っておかずにはいられないとばかりに、力の入った論が展開されるのだが、ふむふむと思いつつも笑ってしまう。

 

なぜ当時の女性たちがキリスト教に魅かれていったのか、仏教との比較において説明してくれる場面では、仏教が当初、女性を罪深い者と決めつけ排除したことに触れ、ひいては、室町時代に書かれた、読むにたえないという文章を引き合いに出して、相当お怒りなのだ。

 

"「・・・、女人に賢人なし、胸に乳ありて心に智なきこと、げにげに女人なり・・・阿弥陀の本願にすがってこの疎ましき女身を捨ておわしまべくそうろう」
「胸に乳ありて心に智なき」という文句には思わず巨乳タレントを思い出して笑ってしまうが、その乳がなかったらおまえはどうやって育ったのだと言いたくもなる。雌牛にも申しわけがない。それでみんなが生きているのだ。"(P・265~6)

 

"おまえは・・・"のくだりに、そうだそうだと大きく頷く私も、"雌牛にも申しわけがない"で、アレレレッと、ズッコケてしまう。それなら、雌山羊も入れなければ片手落ちではないかと、余計なことまで頭に浮かんできてしまう。

 

だが、笑ってもいられない。著者が言うように、
"なんら自分の罪ではなく、女に生まれただけのために最初から地獄に行くという話にはどうしても納得できない。"(P・270~1)
に、まったく同感だ。

 

結局、こういった女性観が後々まで尾を引いて、だいぶ改まってきたとはいえ、今日に至っているのではないかと思わざるを得ない。

 

しかし、これは何も仏教に限ったことではない。

"ただし、ここで断っておきたいのは、キリスト教も立派な女性蔑視の宗教であったということである。"(P・271)ということで、それについても著者独自の見解が示される。

 

ところで、イエズス会総長直々の任命により日本にやってきた巡察師ヴァリニャーノの、日本人を見る目の確かさには感心させられるばかりだ。ただ、「日本人の長所について」の一部などは、日本人の本音と建前の使い分けに惑わされたかなと思わないでもない。

 

"「・・(日本人は)いっさいの悪口をきらうので、他人の生活については語らないし、自分の主君や領主に対し不平を抱かず、天候とかその他のことを語り、訪問した相手を喜ばせ、満足させるようなこと以外にはふれない。・・"(P・163~4)

 

これは一見長所のようだが、実のところは、うっかり本心を漏らして要らぬ詮索を招いては大変と、当たり障りのない話題に終始して用心したのではないか。しかし、"天候とかその他のことを語り"には、当時からだったのかと可笑しくなる。

 

ちなみに彼こそが、4人の少年たちを使節としてローマに連れて行くことを思いついた人物だ。日本での布教をより成功させるため、ヴァリニャーノは、まず各教会に信者の子供のための教会学校を作り、その上に、将来のエリートの教育のために、関西と、北九州と、豊後の三地区にセミナリオを作ったそうだ。派遣の裏には、それらを維持、推進するための資金集めという事情もあったようだ。

 

1581年の年報では、有馬のセミナリオで学ぶ少年たちがいかに優れているかを報告しているのだが、そこに、


"「・・・彼らはオルガンで歌うこと、クラヴォを弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があって易々と正式にミサを歌うことができる」"(P・297)とある。

 

また、

"天正九年(1581)信長が突然安土の住院を訪れたとき、その最上階の三階にあったセミナリオを見学して、そこに備えつけてあったクラヴォとヴィオラを生徒に弾かせて、それを非常に喜んんだことが年報に書かれている。"(P・297)そうだ。

 

ここで、私の疑問があっさり解決してしまった。クラヴォというのは、小さなピアノのようなものというから、同じような楽器を、少年使節の一人が演奏したとしても不思議ではない。

 

但し、この本には、ヨーロッパに渡った少年たちが腕前を披露したかどうかの記述はない。でも、かなり音楽に親しんでいたようなので、多分弾けただろうとは推測できる。それさえ分かれば、実際はどうであったかなど問題ではなくなった。


ちなみに、信長の前でクラヴォを弾いた少年・伊東ゼロニモ祐勝(母は大友宗麟の姪)が、使節の筆頭になるはずだったという。だが、使節の派遣が急に決まったため、安土から彼を呼び寄せる時間がなく、代わりに、有馬のセミナリオで学んでいた父方の従兄弟である伊東マンショに決まったそうだ。

 

この少年使節を迎えたヨーロッパでの熱狂ぶりは、以前(7/18付け)書いた通りだ。しかしこれは、ヴァリニャーノと従者の黒人を見た当時の日本の民衆及び信長たちにも当てはまるように思える。つまり、自分たちと異質の者への好奇心が、熱狂を呼び起す一因ともなったのではないだろうか。

 

各資料の信憑性をも考慮しつつ、まるで謎解きのような筆の進め方にグイグイ引き込まれ、本当に面白く読み終えた。

 

普段は海賊、時に応じて海軍の一員って?『ローマ亡き後の地中海世界 』

"人間世界を考えれば、残念なことではある。だが、戦争の熱を冷ますのは、平和を求める人の声ではなく、ミもフタもない言い方をすれば、カネの流れが止まったときではないか、と思ったりする。"( 『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍 4』塩野七生著・新潮文庫・P・266)

 

航行中の船だけでなく、警備の手薄な地域に上陸しては物品略奪ばかりか人も拉致、町を焼き払うなどして、地中海沿岸に住む人々を震え上がらせていた北アフリカの海賊たちが、7世紀から18世紀までの長きに渡って地中海内を荒らし回れたのも、大国トルコ(オスマン・トスコ)の後ろ盾あればこそだったのかと分かれば、この言葉に大きく頷きたくなる。

 

また、少し前にある方がラジオで、ISの攻撃をやめさせるには、サウジアラビアからの資金を断たなければだめとおっしゃっていたが、まさにこれに該当する。そして、彼らが当時の海賊に重なるようにも思えてきてしまう。

 

ところで、海賊と言うと、"日本語には・・・海賊の一語しかない"が、"日本の外では昔から、二種類の海賊が存在した"そうだ。"ピラータは、非公認の海賊であり、コルサロは、公認の海賊"で、"背後には、国家や宗教が控えていた者たちを指す。"(『ローマ亡き後の地中海世界 1』P・3~4)ということだ。

 

つまり、北アフリカを拠点にしていたサラセンの海賊たちも、ひとたび召集がかかれば、トルコ海軍の一員になってしまうのだ。西方に領土拡大を目指すトルコにすれば、常時海軍を維持するよりは、船を操ることに慣れている海賊たちを時に応じて使う方が、はるかに費用負担も少なくて済むというのは利点であった。それにしても、よく考えたものだ。

 

また、海賊にとっても、トルコ海軍総司令官への道が開けているのは魅力であった。そのためにも、海賊業で名をあげることは大事であったから、仕事にますます拍車がかかったというわけだ。だからこそ、組織力、戦術に秀でた者が出てきたのだろうなと思える。

 

おまけに、"彼らの新しい宗教は、異教徒に害を与える行為を正当化していたのである。"(1巻P・32)と、いうのだから、海賊行為は、自分たちの正義を実証することに他ならないとよけいに張り切ったようだ。

 

ちなみに古代ローマには、
"海賊といえばピラータしか存在せず、それゆえ単なる犯罪者として厳罰に処していればよかったのが、「パクス・ロマーナ」時代のローマ帝国であった。"(1巻P・5)という。

 

更に言うとローマは、"帝政に移行する前の紀元前67年に・・・海賊業に関係していた人の全員を内陸部に移住させ、農地を与えて農耕の民に変え"たそうである。(4巻P・307)

 

また北アフリカも、ローマの属州であった頃は、現代からは想像もつかないほど緑豊かな耕作地帯だったという。だがそれも、ローマ滅亡後、住人の大半が他民族と入れ替わるにつれ、やがては海賊業に活路を見いだすしかない地になってしまったのだから、ローマと他民族との統治能力の違いを思わずにはいられない。


とはいえそれも、ローマの興隆から衰退までを通して見ていると、やはり、時代時代に傑出した指導者がいたからこそ可能だったと分かる。

 

"歴史は、個々の人間で変わるものではないと、歴史学者たちは言う。私も、半ば、というのならば賛成だ。だが、残りの半ばならば、変わる可能性はあるのではないか。"(4巻P・287)

 

確かに、この人物がもう少し生きていたらどうなっただろうと過去に想いを馳せる時など、もしかすると、"歴史は、個々の人間で変わる"こともあり得たのではないかと考えてしまうこともある。

 

しかし、ローマが消滅した後の地中海世界を中心に、当時大国と呼ばれた国々の君主たちを見ていると、どれもこれも器量が足らず、これではどう転んでも、個で歴史を変えるのは難しいなと感じさせられる。

 

例えば、各国連合の海賊対策においても、スペイン王カルロス一世の、"ヴェネツィアの利益になるような戦いはするな"と、連合軍総司令官となった自国海軍の傭兵隊長であるジェノヴァ人アンドレア・ドーリアにこっそり厳命しておいたなど、姑息もいいところだ。

 

結局、敗退することになるこの「プレヴェザの海戦」での奇妙な戦いぶりは、各国宮廷でももちきりの話題となったそうだ。一方、このおかげもあってか、勝利した海賊たちはすっかり勢いづいてしまったというのだから、ヴェネツィアが、これ以後スペインを信用しなくなったというのももっともなことだ。

 

だが、海賊を退治しきれないままでは、やがて自国に火の粉が降りかかってくるのだが、当のスペインはそこまでは見通せず、ジブラルタル海峡待ち伏せしていた海賊に、"金銀を主体とする新大陸の物産を満載した船が"、続けてごっそり奪われて初めて慌てる始末だ。

 

フランス王だって、ローマ法王が連合を組むことを呼びかけても、敵対していたスペインが参加するなら自国は非参加とか、もちろんスペインも同様で、フランスが出るならこっちは止めると、後世からすれば、まるで子どもの喧嘩で、まったく大局に立った見方ができないと嘆かわしい思いだ。

 

実際、どちらの領土も海賊に荒らされ、人々も多勢拉致されているのだから、協力を惜しんでいる場合ではないはずだ。但しこれも、現代の私たちは、遥か先の時代の人から同じことを言われかねない気はする。

 

ちなみに、常にフランスと争っていたスペインも、カルロスの息子フェリペ2世が即位して間も無く、

"経済的破綻のために戦争が続けられず、1559年スペインとフランスは、カトー・カンブレージの講和で戦争を終結させた。"(『クワトロ・ラガッツィ 上』若桑みどり著・集英社文庫・P・220)

ということだ。結局、ここでも戦いを終わらせたのは、"カネの流れが止まったとき"に他ならない。

 

それにしても、ただむやみやたらと領土拡大に熱意を傾けることなく、むしろ、いかに帝国を維持するかに着眼、そのシステムを構築しようとしたカエサルのような人物は、稀有であったことを改めて知る。

 

しかし、先々のことまで視野に入れた上でその場の状況を素早く判断、今どうすべきか速やかに決断を下すというのは、相当の力量が問われることだ。現代は、もはやカエサルを以ってしても、個を頼りの舵取りは相当困難ではないかと思える。

 

ところで、海賊たちのその後だが、

"1740年にトルコが「海賊禁止令」に国として調印し、1856年にあらゆる海賊行為の厳禁を宣言した、「パリ宣言」が成立。以後、少なくとも地中海世界からは、海賊は姿を消して今に至っている。"(4巻P・305〜6要約)そうだ。

 

『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍』は、いろいろな意味で、まことに示唆に富んんだ本であった。

『ハイドリヒを撃て』という映画の紹介に、アラララ??となってしまった件

『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍』全4巻(塩野七生著・新潮文庫)を読み、ローマ帝国が消滅した後、(国として海賊対策をしていたヴェネツィアは別として)地中海沿岸に住む人々が約千年という永きに渡って海賊に悩まされ続けたということを知るにつけ、最初にローマ帝国の構想を描いたユリウス・カエサルって、やはり凄いなと改めて考えていた。

 

そんな折、ラジオから流れてきたある映画評論家の方の言葉に、エッとなった。『ハイドリヒを撃て』という映画の紹介であったのだが、これは、第二次世界大戦中に、実際にチェコで起きたナチスドイツのナンバースリー暗殺を題材にしているという。

 

要人を暗殺されたナチスドイツは怒り狂って、報復として相当数のチェコ市民を無差別に殺害したそうだ。結局それが、暗殺計画の可否を問う議論として沸騰、現在に至っているとのことだ。ちなみに、この事を扱った映画は過去にも作られていて、今回はそのリメークという。

 

過去にそのようなことがあったのを知らなかった私は、話に興味をひかれ、一心に耳を傾けていた。すると、誰もが気づかないくらいのほんの一瞬、本が映しだされるそうで、その本はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』だという。映画を見る時は、ぜひそれに気づいてほしいということで、ちょこっとだが、シーザーとブルータスについての説明がある。問題はそこからだ。

 

"シーザーが独裁者になったら民主主義の危機というのでブルータスが、「ブルータスお前もか」のあのブルータスが立ち上がった・・・"との言葉に、ングググ?となってしまったのだ。しかも、ハイドリヒが暗殺された後何が起こったか、それを、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)亡き後の古代ローマがどうなったかに対比させているようなのだ。そして、そのところこそがこの映画の肝という。

 

それが更に、ングググを私の頭に引っかかったままにさせた。それでは先ず、ずっと昔に読んだきりの『ジュリアス・シーザー』を読むしかないなとなった。次いで、私のカエサルに対する理解が浅かったのかと、再度『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後[下]13』(塩野七生著・新潮文庫)を読み直してみた。

 

"カエサルの考えていたのは「帝政」という新体制であったが、それを「見たいと欲しない」彼らが見ていたのは、あくまでも初期のローマの政体であり、当時の他の君主国の政体でもあった「王政」であったからだ。・・・暗殺者たちの「善意」の行方を追っていくことにしたい。そうなると、プルタルコスの『列伝』のみに基づいたらしいシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』とは、相当に異なる展開になるのもいたしかたない。"(P・39)

 

とあるように、
シェークスピアの戯曲は、どれほど優れていようとあくまでも創作であって、歴史を丁寧に掘り起こして事実を示してくれているわけではないのだ。ましてこの戯曲は、題名こそシーザーだが、むしろアントニウスの演説が名高い。と言っても、この部分こそ、シェークスピアの創作だが。

 

ちなみに、「ブルータスお前もか」のブルータスとは、世に知られるマルクス・ブルータスではなく、今では、彼の従兄弟であり、カエサルの腹心の部下であったデキムス・ブルータスではないかと考える人が多いという。もちろん、真相は当のカエサル以外分からない。

 

こちらのブルータスは、カエサルの遺言状でも、"第一相続人オクタヴィアヌスが相続を辞退した場合の相続権は、デキムス・ブルータスに帰す。"(P・47〜8)とあるように、確かに信頼も厚い。自分の後継者にしてもよいと目していた人物が、暗殺者十四名のうちの一人であったなら、そりゃ「ブルータスお前もか」となるだろう。

 

ところで、ホロコーストに深く関わったとされるハイドリヒと、自分と戦った部族、あるいは自分と対立した相手にも寛容の精神で臨んだカエサルとでは、どうやったって同じ土俵には乗せられない。それなのに、ここが肝心なところという。ならば映画を観てみようと初日の第一回を目当てに映画館まで出向けば、満員であった。

 

すぐにでも確かめねばの気持ちが削がれ、結局映画は、盆休みが終わって、もう少し落ち着いてから観 ることにした。カエサルについて再考しているうちに、まあいいか、映画は映画、釈然とはしないが、監督のカエサルへの理解(本当はこの部分こそが肝心なのだが)を訊したところでしょうがないという気がしてきた。


それにしても、シェークスピアは偉大なばかりに罪作りだ。書かれていることを、史実と勘違いしてしまう人もきっとたくさんいるに違いない。アントニウスだって、ずいぶん立派な人物に思えてしまうではないか。

 

だが、軍事面でのアントニウスの能力を認めていたカエサルも、"戦時ではない平時の統治能力は認めなかったのである。"(P・52)というように、カエサル亡き後のアントニウスの行動をみていると、自分の後を託すに足る器ではないと見限ったことに納得がいく。

 

私だって、最近たまたまカエサルについて読んだばかりだったので、"シーザー・・・ブルータス・・・民主主義の危機"に、違和感を感じてしまったが、知らなければ何ということもなく、(ああそうなんだ)くらいで済ましていただろう。

 

とは言うものの、間違った解釈がそのまま流布されてゆくのはまずいのではないかと、『ローマ人の物語』を読んで以来カエサルびいきになっている私としては、また最初に戻ってしまう。つまるところ、僅かに知っている、あるいは知っているつもりのことを土台に話を進めてゆくのは、やっぱり危険だなと改めて考えさせられた次第。映画鑑賞はまだだけど、おかげでだいぶスッキリした。