美味しいうなぎとユーモラスな絵にお腹も心も満足〜本部うなぎ屋さん(西都市)
伊東マンショの生地・都於郡(宮崎県)を訪ねた後の楽しみは、同じく西都市内にある本部うなぎ屋さんでのランチだ。前回初めて伺った折はうな重だったが、今回は、うなぎをたっぷり食べたかったのでうな重(特)にした。但し、御飯は半分でとお願いしたので、お腹にもちょうど良く収まった。
うな重(特)と呉汁
御飯、蒲焼、御飯、蒲焼と二段にしますかと聞かれたが、一段にして頂いた。(あゝ、美味しいな)と大満足で、次は二段もいいかなと、食べ終わった途端に次回の心算をするほどだ。
店内には、こんなユーモラスな絵が掛かっていたので、写真を撮らせてもらった。うなぎだって、食べられてはたまらないと必死で逃げる。それを追いかけるオヤジさんと女将さん。あたかも、オーブンから逃げ出したジンジャーブレッドマンを追いかける小さなおばあさんとおじいさんのお話が思い出される。
ジンジャーブレッドマンは、最後には狐に食べられてしまったけれど、うなぎの場合は、いかに悪知恵の働く、あるいは賢い?狐でも無理だろうな。何しろヌルヌルとしてつかみどころがない。
そういえばこの夏の土用の頃、スーパーの鮮魚コーナー前で、発泡スチロールの箱に入ったうなぎが外に飛び出してニョロニョロしているのを見た。最初に気づいた買い物客が、「うなぎ脱走してますよ」と店員さんにガラス越しに知らせると、店の方は出て来るなり難なく捕らえた。さすが手慣れたものと感心してしまった。
ところで、本部うなぎ屋さんでは、二階にも絵があるのでよかったらどうぞと案内して下さった。「うなぎ十態」が描かれていて、こちらも微笑ましい。
左から2番目が〈愛してるわ型〉
〈愛してるわ型〉などはさしづめ、川を渡してやるから自分のしっぽに乗るようにとジンジャーブレッドマンに上手いこと言った狐のタイプかもしれない。うなぎだって、捕まえられた後でよもや食べらるとも知らず、ちょっと嬉しそうな顔をしている。
食事の後はホンワカとした絵。お腹も心も幸せな気分でいっぱいのまま、やっぱり西都はいいところだとますます好きになる。もちろん宮崎には、西都の他にもいいところがたくさんある。一度はぜひどうぞ!
天正遣欧使節・伊東マンショの生地都於郡(トノコオリ)を訪ねて〜宮崎・西都市
昨年2月に宮崎に行った折、西都市出身の友人が、古事記に所縁の場所を案内してくれながら、ついでのように、「伊東マンショもここの出身なのよ」と言った時は全くびっくりしてしまった。私としては、どうして伊東マンショ知ってるのであるが、友人からすれば、私がその名を知っていることに逆に驚いたようだ。つまり、お互いその名を口に出してみたものの、よもや相手が知ってなんてことはあるまいと思っていたのだ。
展覧会 パンフレットより
私の方は、天正遣欧使節に関して歴史の教科書にあったかどうかさえ記憶が定かではなく、2015年の年末にポルトガルへ旅した際、エヴォラのカテドラルで初めてその足跡を知ったのであった。そして、伊東マンショの肖像画がイタリアで発見されたということで、昨年の6月、それが上野の国立博物館で展示された時に見に行った。だが、興味はそこまでであった。
それが今年の7月、たまたま若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ』を読み、急に伊東マンショはじめ、天正遣欧使節の少年たちに関心が湧いてきた。そして、次回宮崎へ行ったら、ぜひとも西都市の都於郡を訪ねたいと考えていた。
ちょうど本を読み終えた頃、友人からのハガキで、6月にご主人を亡くされたことを知り、秋のお彼岸に合わせお線香をあげに宮崎へ伺うことにした。
友人は、今度はどこに案内しようかいろいろ考えてくれていたようだが、私が都於郡に行きたいと伝えると、「何故?」と、まったく意外に感じたという。そして、私は私で、その名を以前友人から聞いた時にもましてびっくりしたことに、いざ会って話をしていた時、
"伊東マンショが生まれしところ
我らの我らのふるさと"
と、都於郡小学校の校歌まで歌ってくれた。何と友人は、伊東マンショの生まれたまさにその地がふるさとだったのだ。校庭には、伊東マンショの銅像も立っていたという。
左端奥に都於郡小学校
登校するたびその像を目にし、事あるごとに校歌を歌っていたのだから、これじゃ、私などが知る遥か前から伊東マンショに親しんでいたはずだと納得する。
ちなみに、都於郡小学校のホームページによると、現在の校歌は別だ。スマホでその校歌を友人に示すと、作詞者の名を見て、「金丸純子(すみこ)先生は、隣のクラスの担任の先生だったわ」と言うではないか。これにもびっくり。但し、この校歌に伊東マンショの名はなく、歌詞の3番に、"遠く ローマへ 続く道"と僅かに暗示されるだけだ。
三の丸への階段
案内図
都於郡を訪ねた日はあいにく雨で、三の丸辺りをざっと見学しただけだが、本丸も含めた全体が、想像していたよりずっと広く、これまた「エッ!」という驚きであった。
宮崎へ来るほんの少し前、久しぶりに読み返した『イタリア古寺巡礼』(和辻哲郎著・岩波文庫)に、天正遣欧使節の足跡を辿ろうと、パリからスペインへ回る方の話が出てきた。何度も読んでいる本なのに、以前は、この部分に何かを感ずることなど特になかった。だが今回は、その当時(1927年)から、日本人としてヨーロッパを初めて訪れた少年たちに熱い想いを抱いていた人々がいたのかと改めて興味を引かれた。
検索すると、その浜田さんという方も天正遣欧使節に関する本を書かれていた。しかしその本は、図書館で見つけられなかった。だが、ちょうど書架には、松田穀一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)があったので、『クアトロ・ラガッツィ』とは別の視点で書かれた本も読んでみたかったため早速借りてきた。
こちらは、「伊東マンショとは誰か」(P・38)等、4人の少年たちの出生についても詳しい。(但し、それほど資料が残されているわけではない)
"昭和の初年に村上直次郎博士がマンショの郷里は「都於郡」であることを明らかにされたので、郷土の方々は思いがけぬ史実に驚き、かつ喜んでその記念碑を建てたのであろう。"(P・41)
とあるので、もしかすると都於郡小学校の校歌の歌詞にも、その辺りが反映されているのかもしれない。それを友人に伝えると、「そうかもね」と笑っていた。ただ友人いわく、「この頃は、伊東マンショといえば飫肥の方が有名になっちゃっているのよ」とのことだ。
飫肥(オビ)は、島津氏を降伏させた秀吉が、伊東マンショの母・町上(マチノウエ)の異母兄弟伊東祐兵に与えた領地だ。帰国後、秀吉から自分に仕えるよう誘われるも辞退し、九州各地で布教に従事していたマンショは、伊東祐兵に招かれて飫肥にも赴いているという。その頃、町上もその地に住んでいたらしい。
確かに飫肥は、小京都と言われるだけあって町並も風情がある。実際私も、飫肥の雰囲気が気に入って二度ほど訪れている。友人言うところの「何もない」都於郡城址よりは、人の注目が絵になりやすい所に集まるのも仕方のないことかもしれない。でも、島津氏に攻め入られてこの地を離れざるを得なかったマンショが、7、8歳の頃まで過ごした地はやはり見るに値する。
その後で、西都原古墳群の方へも回ってくれたのだが、ポコポコと数多くある古墳の緑と、その下に咲く曼珠沙華の赤とのコントラストがとても美しかった。ここへ来るのも三度目だが、時期が違えば眼に映る光景も異なることを改めて感じた。
また今回はパスしたが、県立西都原考古博物館もおすすめスポットだ。この3階のバルコニーから周囲を見渡していると、とても気持ちが良く、心が澄んでゆくような気がする。
ともかく、古事記にもその名が記されている西都は、派手な宣伝こそせずに、むしろ奥床しく佇んでいる感じがより好ましい。いい所だ。とても美味しい本部うなぎ屋さんもある。その紹介はまた今度。
かつて学問と文化の中心地だったトンブクトゥ〜アフリカへの認識が変わる本
『アルカイダから古文書を守った図書館員』(ジョシュア・ハマー著・横山あゆみ訳・紀伊国屋書店・2017年)が、非常に読み応えがあって面白かった。旅行から帰った次男が私にくれた本だが、多分、自分では巡り合えなかった一冊だ。
何といっても、500年以上も前に、トンブクトゥ(マリ共和国)が学問の都であり、大学まであったことを知った時は、まさに目を見開かされる思いで、アフリカへの認識がガラリと変わった。また、少し前に読んだ本で、ずっと心に引っかかっていたことがあったのだが、それもこの本を読んで一気に晴れた思いだ。
ストーリーを簡単に追うと、
文学者でハーバード大学教授のヘンリー・ルイス・ゲイツは9歳の時(1960年)、アメリカの古い漫画、ロバート・リブレー作の『世界奇譚集ーウソのような本当の話』のひとつに目を奪われた。
"それは地元の地方紙に載ったひとコマ漫画で、長い上着を着てターバンを巻いた男たちが本を抱え、一六世紀のトンブクトゥの広い大学図書館を歩くさまを描いていた。幼いゲイツは、アフリカが未開で野蛮な地であるという伝統的な見方のもとで育っていたため、この漫画を目にして雷に打たれたようになる。
・・・西洋の偉大な歴史学者が「真実」として伝え、長らく受け入れられてきたアフリカ人の姿。それは新聞の漫画とは正反対のものだった。(P・73~74)
それから37年後、映像製作者でもあるゲイツは、アフリカ史のドキュメンタリーを撮るため訪れたトンブクトゥで、たまたま通訳兼ガイドの友人であるアブデル・カデル・ハイダラに出会う。
天文学書などの古文書を見せられ
"「ここにある本を黒人が書いたんですか?」ゲイツは目を丸くした。"
それは、
"「子供のころ、『アフリカ人は読み書きができず、本ももっていない』と学校で教わったものです」(P・76~77)
というゲイツからすれば、まさに信じられない思いであった。
結局、これを機に、ハイダラの私設図書館を作る計画が進み出す。それまでハイダラは、ムハマド・ババ研究所の調査官として働いていたのだが、その仕事に一区切りつけ、父の遺言により自分に管理を託されていた、ハイダラ家に伝わる膨大な古文書の整理・保存に着手したいと考えていた。
だが、資金集めに苦慮、"100か所以上の財団に助成金の申請を断られ、もはや万策尽きていた。"という。それがゲイツの後押しのおかげで、アンドリュー・W・メロン財団から助成金が交付されたのだ。
やがて、"マンマ・ハイダラ記念図書館は、世界の最先端をいく古文書保存施設へと急速に成長をとげ、2010年にはトンブクトゥにおける文化財復興の象徴となりつつあった。"(P・159)
しかし、マリ北部がアルカイダによって支配されるようになり、ついにはトンブクトゥも占領されてしまう。アルカイダに大事な古文書が破壊されるのを恐れたハイダラは、密かに、トンブクトゥ中の図書館にある古文書およそ38万冊すべてを、マリの首都バマコへ移すことを計画する。
この本にはその実行過程が、マリにおけるアルカイダの台頭状況とともに詳しく記されている。それにより、2013年にアルジェリアの天然ガス精製プラントで日揮社員10人が巻き込まれた事件にも、そういうことだったのかと、今さらながらではあるが背景が非常によく理解できた。
ところで、ゲイツが数々の古文書に驚いたのも無理がない。"一四世紀後半になると、トンブクトゥは地域における学問と文化の中心地として台頭する。"(P・28)とあるが、西洋では、それらのことがまったく知られていなかったため、長い間、アフリカには芸術も学問もないと思われており、黒人は劣った存在と見られていたようだ。
"スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、1754年のエッセイ「国民性について」の中でこういいきっている。「私には、黒人が生まれつき白人よりも劣っているように思えてならない。"(P・74)
には、ただびっくりしてしまうが、このほかにも、ドイツの哲学者カントやヘーゲルなど"啓蒙思想とそれにつらなる哲学者たちの言葉"として、同じような意見を紹介している。
ところで、『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり著・集英社・2003年)の中でも、宣教師たちが日本人の肌の色にこだわっていた箇所があったのだが、結局、それらも根は同じでことあったと解る。
宣教師たちにとってなぜ肌の色が重要かというと、
"南アメリカやアフリカで色の濃い人々を「発見」したとき、カトリック教会は彼らに布教することができるのかどうか真剣に議論した。"(P・125)
とあるように、当時(500年前)は、黒人には布教しても意味がないと考えられていたらしい。"魂の救済は人に対してであって"と、つまり人間かどうかという、唖然とさせられるような観点から論じられていたようだ。
日本人の場合も、宣教師それぞれによって、肌の色の評価が分かれていたという。日本人を黒人と言った準管区長のポルトガル人カブレラは、"日本人には知性がなく精神もないから教育してもしかたがない野蛮人"と評しており、
巡察師ヴァリャニーノの方は、
"ことあるごとに日本人の肌の白さを強調していて・・・「日本人はすべてのヨーロッパ人と同様に色白く、高貴、聡明であり、徳操と学問の能力があり」というふうに、日本人の肌の白さを、ヨーロッパ人と同じ知性の外見的証拠としてあげている。"(P・124)
ということだ。
ちなみに、最初に日本へやって来たザビエルも、"「日本人は白い」と報告している"という。そこには、当時"知性の外見的証拠"を、肌の色で判断したということが窺える。
ところで、日本からはるばるヨーロッパまで渡った四人の少年たちは、長い旅の途上で日焼けして、報告書には、"「変色」した"と書かれていたという。それに対し著者は、色の白い日本人を見せたかった人たちにとっては、さぞ残念だったろうと書いておられる。このように、時折はさまれる若桑節が何とも愉快だ。
それにしても、もし、ヴァリャニーノをはじめ当時のヨーロッパの知識人たちが、自分たちとほぼ同時代のアフリカの人たちが、医学や天文学をはじめとする様々な知識と知恵が詰まった装飾も美しい本を持ち、しかも大学まであったことを知ったなら、どのような反応をしたであろうか。
殊に、知識人であり、観察力、洞察力ともに優れていたヴァリャニーノに、ぜひとも聞いてみたい。そして、肌の白さと知性には相関関係などないことに気づいてもらいたかった。もちろん、その後に現れた"啓蒙思想とそれにつらなる哲学者たち"も、アフリカにおける文化の高さを知れば、自らの言葉を撤回せざるを得なかっただろう。
などと、この本の趣旨からはやや逸れたことを思いながら読み終えた。ともあれ、読書の秋にぜひどうぞ!
やっぱりブリューゲルの絵はいいな『ブリューゲル探訪 民衆文化のエネルギー』
ブリューゲルかと書架から取り出した本(『ブリューゲル探訪 民衆文化のエネルギー』森洋子著・未來社・2008年)の表紙を見て驚いた。
本の表紙 (『農民の婚礼』部分)
中央には、ほんのり頬を染めた花嫁が幸せそうな笑みを浮かべて座っているではないか。あの時、このくらい花嫁の表情がはっきり見える画集に出会えていれば良かったのにという思いが過ぎる。
かつてライティングの授業で、この絵『農民の婚礼』のどこに花婿がいるかをテーマに、小論文を書くという課題が与えられた。参考にしようと小さな画集も買って、絵の中の全員を眺めるも、花嫁の表情が今ひとつよく分からない。花婿探しがメインといっても、やはり花嫁も気になる。
しかし、(婚礼の主役なんだからもっと大きく描いてくれてもよかったんじゃないのブリューゲルさん)とつぶやきたくなるほど、一応花嫁も入れておきましたくらいの小ささだ。もっともブリューゲルさんからは、(婚礼といっても、自分の時代の風俗としての関心があるだけで、花嫁個人にさほど思い入れはないものでね)と、反論されるかもしれない。
ところで課題の方は、ブリューゲル研究者たちの著書を探して読み、それに毎週頂くプリントも参照、画集から受けた印象等も合わせ、なんとか自分なりの結論を導き出し、期日までに提出することができた。だがその授業の後も、花嫁がどのように描かれているのかがずっと気になっていた。そして、結局ウィーンの美術史美術館へ見に行くことにしたのであった。
やはり行っただけのことはあった。『農民の婚礼』に『雪中の狩人』と気になっていた絵はもとより、他にも数々のブリューゲル作品を目にすると、やはり縮小サイズの画集からでは窺い知れないことが多々あった。そして何よりも、絵から受ける印象がまるで異なることに軽いショックを覚え、感嘆しつつ長いこと見入っていた。これがただ一度の機会になるだろうとしっかり見たつもりでいたが、実はそうではなかった。
今回この本で、
"中景で農家の煙突の炎に大騒ぎで消火する村人の姿はあまりに微細なタッチで、数回目に気がつく。"(P・290)
と、『雪中の狩人』での細かな描写について、(そうなんだ)と、すぐにでもその部分を確かめに行きたい気分にすらなってくる。研究者でなくとも、ブリューゲルの絵は、細部まで丁寧に眺めてこそ、その良さをより深く味わえるのだと思う。
ちなみに著者は、
"人間の本質を衝いたブリューゲルの作品には、われわれが加齢とともに、その意味をより深く理解できる、奥深い、不思議な魅力がある。
たとえば《ネーデルランドの諺》には、百近い諺によって、人間の愚行、弱点、失敗、虚偽に対する風刺や教訓、また民衆の知恵などが表現されている。"(P・325)
とおっしゃっている。
やっぱりブリューゲルの絵はいいなと、本を読み終えた今あらためて魅かれる。そして、ブリューゲルに限らず絵は、一度見たからといってよしとせず、何度でも機会を捉えては見に行きたい思いが強まる。ましてブリューゲルは、"加齢とともに・・・"ということなので、きっと見るごとに自分なりの新たな発見があって、更に楽しめるだろう。
ボクはエムエム1歳〜今日トラ子さんが来たよ
今日トラ子さんが来たよ。一緒に遊んで、とても楽しかった。
お昼寝から目が覚めたボクは、ハイハイしてお部屋から出たの。するとリビングのドアが開いていて、玄関の方から声が聞こえたんだ。ボクがそっちに顔を向けると、ママと誰か知らない人がいて、ボクの方を見ている。
「アラッ、起こしちゃったかな」と言いながら、二人でボクのところまで来たよ。ボクを抱っこしたママが、「エムエム、トラ子さんよ。抱っこしてもらう?」と言ったので、ボクは、慌ててママの胸に隠れたんだ。
でも、ちょっと気になる。そっと顔を上げて、ママの肩からのぞいて見た。アレッ?おかしいな。あの人がいない。変だなともう少し首を伸ばしてみたら、あの人も、ママの後ろからそっと顔を出してきた。でも 、目があったら、またすぐに見えなくなってしまった。
ウン?何だか面白そう。今度は、反対側からママの背中をのぞいてみたよ。するとあの人も、同じようにこちらをのぞいていたんだ。でも、またすぐ消えちゃった。次はどこから現れるかなと、あっちをのぞいたりこっちをのぞいたりしていたら、あの人がいきなり、「バアッ!」と言って、ママの肩の上から顔を出したんだ。そして、「エムエム君こんにちは。私トラ子。ずいぶんお兄ちゃんになったのね」と言ったの。
そりゃそうさ。ボクはお兄ちゃんだよ。なんていったって、一歳になったんだもん。さっきは、ママを探してハイハイしたけど、もう歩けるんだ。でも、トラ子さんって、覚えてないな。きっとボクが、まだハイハイもできないずっと小さな時に会ったのかもしれないな。
ところでボクは、ちょっとだけトラ子さんに抱っこされてから、ベビーサークルの中に降ろされたんだ。トラ子さんも入ってきて、「絵本いっぱいあるわね、どれがいいかな」と言って、ボクの意見も聞かずに勝手に読み始めたの。ボクだって、お気に入りっていうものがあるのに。でも、それをどう伝えていいのか解らない。仕方がないからボクは、トラ子さんが持っている本をひったくって箱に入れたんだ。
するとトラ子さんは、「アラアラ、次々に箱に入れてしまっているけど、どれも気に入らないのかな?」と不思議そうな顔をする。ボクには、好みがないとでも思っているようだ。
ちなみにトラ子さんは、自分のお気に入りの『はらぺこあおむし』を開いて、小さな穴に指をいれようとしている。でもこれは、お出かけ用サイズなので、トラ子さんの指は入らない。残念そうな顔はするが、それでも諦めずに、何度も小指の頭を入れようとがんばっている。ボクの指じゃないと無理なんだけどね。でも今は、『はらぺこあおむし』の気分ではないのだ。
トラ子さんは、ボクに読んでくれるというよりも、自分が楽しみたいだけみたいだ。おいおいトラ子さん、ボクだって本を読んでもらうのは好きなんだよ。そこでボクは、お気に入りの本をトラ子さんの方へ出したんだ。
「さいだもん?さいだもんって何だろうね?」と言いながら、トラ子さんはページをめくり始めた。するとキッチンからママが、「それ、『1さいだもん』なんですよ」と声をかけてきた。まったくトラ子さん、1の字が見えないのかね。ボクだって、変だなと思ったよ。
だいたいトラ子さんは、ペンギンが表紙になっている絵本を広げて、「カラスのエムエム君が」と始めたんだ。たまたま横にいたママが、「アッ、それペンギンだと思います」と訂正したんだよ。それを聞いたトラ子さんはビックリしたように絵を見直してから、「本当だ。黒いからカラスだと思っちゃったけど、よく見ればペンギンだわね」だって。しっかりしてねトラ子さん。本当に、本、読めるの?なんだか、ボク心配になってきたよ。
でもね、ちゃんと読んでくれたよ。その後で、トラ子さんとボクは追いかけっこをして遊んだんだ。柵の上でミニミニ消防車を走らせるトラ子さんが、ウーウーと口サイレンを鳴らしながらボクを追いかけて来るの。ボクは追いつかれないように、ベビーサークルの内側を逃げて行くんだよ。トラ子さんの手が届かない安全なところまで来たら、ボクは積み木の車に腰掛けてちょっと一休み。
「アララ、いいところで休んじゃって、それならこっちから行くか」って、トラ子さんが無理矢理奥まで手を伸ばしてきたんだ。ボクは慌てて立ち上がると、また逃げはじめたんだ。あっちへ行ったりこっちへ行ったりしているうちに、今度はトラ子さんが、ドッコイショと椅子に座っちゃったんだ。
まだ遊び足りないボクは。ミニミニ消防車を持って、トラ子さんの方に差し出してみたの。するとトラ子さんは、「まだ遊べって?」と言うと立ち上がって、またウーウーと口サイレンしながら、ボクを追いかけはじめたんだ。
楽しくて楽しくて、トラ子さんが来てくれて、今日は本当に良かったよ。パパが帰ってきたら、一番にお話してあげよう。でもボクのエムエム語、パパ解るかな。
曼珠沙華を見逃したかと焦ったけれど〜いつもの場所でいつものように咲いた花
この1週間ばかり、どこを歩いていても曼珠沙華が目を惹く。スッと伸びた茎の先に、大きく紅い花が鮮やかだ。アラッ?こんなところにもと、思いがけない場所から顔をのぞかせている花に目を留め、早速自分の曼珠沙華地図に加えておく。といっても、記憶の中だけのことだから、来年もまた、「アラッ?」とやっているかもしれない。何れにせよ、歩く楽しみが増える。
今年は、曼珠沙華を見逃したのかもしれないと、実はちょっと気になっていたのだ。というのも、ちょうど2週間前(9/1)、日中の涼しさに誘われてあちこち散歩していたら、世田谷城址公園では、既に曼珠沙華が咲いていた。しかも、咲き始めたばかりなのかと思いきや、ほぼ終わりに近かった。蕾など全く無く、これが今年の見納めですよという感じであった。
世田谷城址公園(9/1撮影)
(9/1撮影)
草むらにポツンポツンと見える曼珠沙華(9/1撮影)
今年は8月から咲いてしまったのか。それにしては、私の近所で曼珠沙華の気配などどこにもなかったのにと、自分がまるで気づかなかったことにガッカリしてしまった。これで終わりってまさか、と信じがたい思いもあって、翌日の朝(9/2)早くから小雨の中を、思い出す限りの場所をあちこち探して歩いた。
でも、例年なら、見事な姿を見せてくれるはずの線路ぎわをはじめとして、どこにもその影すら見当たらなかった。その少し前、線路内の伸びた草を刈る作業をしていたから、その時一斉に除去されてしまったのかな。それとも今年の8月は夏らしくなかったから、その影響なのかな。と、あれこれ考え、まったく残念だが仕方がない、来年までお預けだと諦めた。
すると何とその数日後、今度は金木犀の香りまで漂ってくるではないか。最初は気のせいかと思ったが、別の所でも香りに気づき、やはり、今年は季節が先取りしているのだろう、これじゃ曼珠沙華に気づかなかったのも無理ないかと思っていた。
ところが先週末頃、線路ぎわで刈られたとばかり思っていた曼珠沙華が、何本もその茎をまっすぐ天に向けているではないか。いやあ、これは楽しみと、毎日様子を見ていたら、クリーム色が先ず咲いて、次に紅い花が開いた。
ちょうど今が真っ盛りで、まるでガラスの器に活けられているかのように、一列に並んで見事な姿を披露してくれている。そこからやや離れた線路ぎわにも、紅だけの一群があって、それも綺麗だ。 但し、線路内ということもあって近くまでは行けないため、写真には撮れない。自分の目に、しっかり焼き付けておくよりない。
ところで、2週間前にセッセと探し歩いても見つからなかったのは当たり前と、今を盛りと競うように咲く花々を見ながら納得。今年も、いつもの場所でいつものように、つまり順当に曼珠沙華を見ることができて良かった。それとも、早咲き?(なんてあるのかどうか解らないが)の花を見て焦った私が、単に粗忽者だったということか。
ミケランジェロの《最後の審判》に手が加えられていたなんてビックリ!
この5月に、バルセロナのカテドラルとエヴォラの博物館で「受胎告知」を見た時、驚きを顕わにする(ように見えた)マリアの表情に、どちらもずいぶん似た雰囲気だなと思った。これまでも各地の教会や美術館を訪れるたび、「受胎告知」でマリアがどのように描かれているかに着目してきて、ついツッコミを入れたくなるような絵もあったが、その中でもこの二点はかなりユニークに感じられる。
この絵は、以前も同様のことを書いたが繰り返すと、「アレッ、マア!なぜに私が?」というセリフを入れたくなるような顔つきをしている。
またエヴォラの彫刻は、大天使ガブリエルの顔が何ともユニークで、「言われたからここに来たけど。まったくなあ」と、マリアに同調してやや困惑気味にも感じられる。
いつ頃の作品か記録してこなかったので正確には判らないが、多分、イベリア半島をイスラムが支配した後、さらにキリスト教徒によって再征服(レコンキスタ)されて以降(13世紀)だと思われるが、それにしてもこれは稚拙すぎやしないかと思う。
宗教画は、制作者の好みに任されているだけで、依頼者側からは、何らかの基準は示されないのかとやや疑問すら覚えた。また、手本になるものがなければ制作するのも難しいだろうから、制作者はテーマに沿った絵をどこかで目にしているはずだ。だから、バルセロナのカテドラルの受胎告知と似通っていても不思議はない。
これらを目にして以来、宗教画は、どのような流れでイベリア半島にもたらされたのだろうと気になっていた。だが、ローマ遺跡絡みで、まずはローマが支配していた時代及びその後の地中海世界関連の読書に没頭していたため、そこまでは手が回らなかった。
それらが一段落してみれば、何とタイミングがいいことに、『聖母像の到来』(若桑みどり著・青土社・2008年)を図書館の書架に見つけた。これは、先に読んでいた同じ著者の『クアトロ・ラガッツィ』とも重なるテーマだ。
この研究の主題は序論によると、
"本書は、十六、十七世紀における近代世界システム構築期において、東アジアに進出したポルトガル/スペイン国家の世界制服/世界市場形成に随伴してカトリック教会が行なった布教活動によって、日本にもたらされた十六、十七世紀のキリスト教美術を問題にする。"(P・9)
ということだが、当然ながら、日本に入ってくる以前の宗教画についても詳しく記述されているので、私が知りたかったことの手がかりもあるかなと読み始めたらいきなり、
"《最後の審判》は完成直後から多くの反論にさらされた"(P・65)にエッとなった。しかも、"全面破壊されそうになった"とあるではないか。今では、世界中から人々を呼び寄せているヴァチカン・システィーナ礼拝堂のミケランジェロの作品にそんな危機があったとは、とまったく驚かされてしまった。
ちょっと長いが、トレント公会議(イタリア・トレントで1563年に行われたカトリック教会の公会議)でのその部分を引用させて頂く。
"トレント公会議はその最後の第二十五盛会議で聖画像の根本的な粛清を決定した。その内容は卑猥、不合理、不適切な画像を否定し、正統的、教義的、歴史的に正確な、また正直な画像を勧め、聖堂への画像の設置にあたっては聖職者の検閲を必要とするというものであった。・・・実際に、閉会直後の一五六四年一月二十一日、トレント公会議委員会は、《最後の審判》の一部を覆うことを決定した。・・・そしてピウス四世は作者の死後、ようやくダニエーレ・ダ・ヴォルテッラにもっとも「猥褻な」部分を描きなおさせた。このとき恥部を布で覆ったために、この画家は「ブラゲットーネ(大ふんどし)描きの異名を負うことになった。過酷な審問官出身のピウス五世はさらに凡庸きわまりない二人の画家にブラゲットーネを追加させた。・・・グレゴリウス十三世さえもが、全面破壊を考え・・・。グレゴリウスは、《最後の審判》を破壊して別の二流の画家に「天国」を描かせる意図を持っていた。彼に続くシクストゥス五世もフレスコ描きのチューザレ・ネッピアに「恥ずかしいところ」を覆わせた。"(P・64~6)
ここには、全面破壊を考えたグレゴリウス十三世が、その当時ローマにいたエル・グレコに相談したエピソードなども出てきて、関係者の皆さんが相当悩まれた様子が窺える。しかし、破壊されなくて本当に良かった。
また一方では、著者いうところの"二流の画家"が「天国」を描いていたらどんな絵になっていたのかなと、ミケランジェロの作品は破壊せずそのままにしておき、別の場所に描かせていれば、見比べることもできて面白かったかもしれないなんて考えも浮かぶ。
まだこの本の途上ながら、ミケランジェロの《最後の審判》があわや破壊されかねなかったということに驚き、急ぎ取り上げてみたが、もしかすると、これは私が知らなかっただけで衆知の事実なのかな。
しかし、ミケランジェロだって、まさか自分の死後、すぐさま絵に手が加えられたなんて思いもよらなかっただろうな。それこそ、大天使ガブリエルのビックリ顔そのままに目を見開いて絶句したかもしれない。このようにいろいろ愉快な想像をしていると、絵を見るのがますます楽しみになってくる。
ところで気になる「受胎告知」だが、こちらも、ルネサンス以前とトレント以降では異なっているという。「受胎告知」がどのように描かれてきたかについては、P・190〜206までのページに詳しい。ご興味のある方はぜ一読を。ちなみに、カラヴァッジォやエル・グレコの絵も取り上げられている。
本を読んでいると、トレント以前のそれぞれの時代に描かれた「受胎告知」について更に知りたくなってくる。そして叶うことなら、改めてそれぞれの「受胎告知」を見て回りたいものだ。まったく楽しみは尽きない。