照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

フィレンツェ・パリへ 旅立ちの日〜行くか取り止めるべきかと悩んだ末に

2011年はフィレンツェ・パリを予定していた。出発の一週間前に起きた東日本大地震に、旅行を取りやめるかかどうか迷いに迷った。出発時刻は予定通りだが、急遽ソウル経由になるという連絡が、航空会社からあった。地震の後の忙しさも、何とか落ち着いた。行くと決めた。(本日最後の成田行きです)とアナウンスされた京成スカイライナーに滑り込んで、成田空港まで向かった。成田エクスプレスは、まだ運休中だった。
 
成田空港は帰国する人々でごった返していた。座る場所もないので、まだ開いてないカウンターの前から伸びる、長い列に加わることにする。航空会社の係員が、チケットを譲ってくれる人を募って歩いていた。会社から直行したので、シャワールームも使いたい。辛うじて間に合った。薄暗い空港内は、どこも早々と店仕舞していた。
 
成田からソウルへ向かい、給油や食品の積み込み、乗務員の交代をした。2時間程、機内で待っていた。通常は成田でやる作業だ。日本国内で報道されていることだけを鵜呑みにしていた私には、原発事故への拒否反応が過剰とさえ思えた。世界はどのように報じているのだろう。隣席の日本人女性は、フランスの原発で働くボーイフレンドから、すぐ避難してくるようにと連絡があり、急ぎチケットを購入したとの事であった。
 
原発事故直後から、人に言われて洗濯物は外に干さないようにしていた。その後もあれこれ親切な情報が送られてくる度、考えすぎくらいに思っていた。原発事故を憂慮する香港の取引先からのメールにも、東京は何の問題もないから安心してほしいと返信していた。あらゆる報道が作為的だったと知って後、こちらが絶望的に無知であった事が解る。
 
予定通り出かけようと決めたのは、あらゆることに自粛の空気が広がりだしていた事への反発でもあった。最初は、地震津波の被害に逢われた方々の事を思うと、旅行という個人的な楽しみをしている場合かと迷っていた。だが、同調圧力のような雰囲気に、何か変だと感じてもいた。「欲しがりません勝つまでは」の時代は、このような感じだったのではないかと思った。もっともらしい御旗の前にうな垂れて、流されていく自分は嫌だった。地震原発事故から派生した、全体主義的傾向が何より嫌だった。
 
このような状況下で旅立つことを、理解されなくてもいいと思った。そして、自分で考え行動した結果は、自分で引き受けようと覚悟を決めた。私を非難して離れる人はそれでいいと、今思えばオーバーとも言える程の決意を持って出かけたフィレンツェであった。但し、パリからフィレンツェへ到着する頃は、すっかり気持ちが切り替わっていた。