照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

血液型の話から

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私は血液型で、自分を一括りに決めつけられるのが嫌いだ。相手に、こちらに対する軽い悪意を感じ取る時は尚更嫌だ。そのような時、相手が血液型の殊更悪い面を強調して、優位に立とうとするのは何故だろうと考える。また、言われた事が尾を引くのは何故だろうと、更に自分を分析してみる。
 
かつて心理学の授業で、血液型研究は明治時代の軍隊において、適性を見るために始まったと教わった事を思い出す。何の根拠も無いのに、現代も尚衰えず実しやかに語られるのは、コミニュケーションツールになっているからだそうだ。なるほどと頷いたものだ。
 
血液型の話題は、初対面の人と話すとっかかりには良いだろう。だが、意図的に決めつけられるのはごめんだ。私の両親は同じ血液型ながら、真反対の性格をしていた。一人の人間には、様々な要素が複雑に絡んでいる。だがそれにすら、もっともらしい解説をつけるから可笑しい。
 
他愛の無い話題としてなら、相手を貶そうという意識は働かない。そのような場合は、もちろん笑って流せる。しかし、何故決めつけられるのが嫌なのだろう。有りたい自分を目指して努力している時、それが血液型にこと寄せて否定されたと感じられるからだ。それは、不器用ながらも精一杯やっていることが、人に認められない哀しさだ。
 
例えば職場で、自分の仕事を手早く片付けて誰かを手伝ったとする。嬉しそうにお礼を言われて、こちらも良かったと喜ぶ。ところが後日、相手の不用意な血液型発言で、自分の善意がいいように利用されていたと気づく。そこに相手に対する失望感が生まれる。
 
人との会話で引っかかった言葉や思いをそのまま放っておくと、次第に大きくなってしまう。大きな問題よりは、知らず知らずに溜まった些細な事の方が、人間関係をギクシャクさせる。説明がつかない鬱憤だからだ。そうなってから考えても遅い。私はその都度、自分が納得ゆくまで考える。そして、しこりを残さないように対策を立てる。
 
先の例で言えば、手伝わないと決める。それから、摩擦を起こさないように戦略を立てて、決して手を出さない。どれほど大変そうだろうと、それはその人が仕事のやり方を見直すなどして、自分で考えればいい事だ。良かれとやった事全てが、相手の考える力を奪っているかもしれない。自分の精神安定のためには、一線を画すのも大事だ。悪意のある相手には、必要以上の介入はしないに尽きる。安易な同情は、双方にとって無駄だ。
 
血液型を例に上げたが、それはどのような場合にも当てはまる。時には意識に引っかかった相手の言葉や態度を、見過ごさない感性も大事だ。そして考える習慣を身につけたい。但し、なぜなぜを少なくとも5回は繰り返し、自分の思いを掘り下げる必要がある。単なる僻み根性や被害者意識からではないように、しっかり自分を見つめたい。妬みや羨ましさが思いの底にあるならば、自分をきちんと諌めよう。
 
そして自分もまた、誰かを不愉快にさせる話し方をしていないか常に心して言葉を使いたい。言葉には、自分の無意識な思いも表れてしまう。相手を思いやり、丁寧さを心がける習慣が自分を高めてゆく。