照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

食を考える 一皿の写真から その1

朝食の写真を、日々素敵にフェイスブックにアップされている方がいらして、毎日楽しみにしていた。ある時は、緑が多いサラダ風の一皿であった。半分に切られたゆで卵が、くりっとした目のようで可愛らしい。白いお皿の上に、ふくろうがいるみたいと思って眺めていた。すると黄色い瞳で、「ぼくを食べないで!」と訴えるようにじっとこちらを見ているように思えてきた。自分の朝食ではなく、まして写真なのだが、自分ならどうするだろうと考えていた。そして、「ごめんね。でも、私にはあなたの生命が必要なの」と言って、箸を取ると思った。

その朝は、「食べるという事は、生命を頂く事」という当たり前の事に改めて気付かされる思いであった。日頃食事しながら、生命を意識した事はなかった。「いただきます」と挨拶しながらも、食材その物の生命へまでは思いが及ばずにいた。野菜ばかりか、肉や魚を口にする時でも同様である。食材を手間暇かけて育ててくれた人や、食事の準備をしてくれた人、食事が頂ける事への感謝に終始していた。だが、その朝以来、食べるという事を折にふれて考え始めている

食べるという事は、生命のリレーだ。便宜的に、人以外の生命ある物全てを、仮に誰かと呼ぶならば、誰かの生命が誰かに引き継がれてゆくから生命が続いてゆく。バトンを渡されてから渡すまでの時間はその種により異なるが、地球上の生命は等しくそのように受け継がれてきた。リレーが上手くいかなければ、その種はそこで絶える。

自分の責任を果たすために、バトンを持っている間は別の種の生命を取り入れて生きる。それが日々の食事だ。今度は、種から種へのリレーだ。種によっては、同種という場合もあるだろう。究極の事態においては、人も例外ではない。アンデス山中で墜落した旅客機の例もある。生命を繋ぐには、厳しい決断をせざるを得ない事もある。自分に出来るかどうかはさておき、生命を守るには、食べる事がどれ程不可欠かという事だ。

個々における日々のリレーは、動物ばかりか、植物だって同様だ。化学肥料など無かった時代は、枯れた葉や茎が新たな生命を育む栄養として土に鋤き込まれた。それもリレーだ。人間も身体を通過した後の物で、その循環の一端を担っていた。世界の何処かではまだ続いているだろう。日本でも江戸時代の話ではなく、ほんの数十年前の事だ。現代の日本では、様々な要因から循環方式が廃れるに従い、生命のリレーも見えずらくなった。宅地化が進み住環境に敏感になるに従い、自然界の動植物はもとより家畜も畑も暮らしから遠のいていった。するとますます、食は生命という感覚から離れてゆく。
その2へ続く