照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

「自己基準と他者基準」 その2

イタリアの大学院で学んでいる日本人女性のツイッターを、時々覗いている。学業に、アルバイトに奮闘する様子をユーモラスに、時には深刻につぶやくのだが、それを微笑ましく拝見している。その方は学芸員の資格もお持ちで、知識も豊富だが、あるとき間違った引用をされたようで、慌てて訂正ツイートがでた。その最後に、「どうか頭の悪い人がからんできませんように」とあって、笑ってしまった。苦い経験があったのかもしれない。

多分、ブログやツイッターの記事へ指摘する人は多いのだろう。だが、正確を要する記事ならともかく、ささやかなつぶやきや、日々の出来事、自分の思いを綴った文章にまで、僅かでも落ち度はないかと、目を光らせるような事はしたくない。厳しく指摘すべきと思ったとしても、謙虚に、まずは自分の先入観から洗い直すようにしたい。
 
但し昨年、世紀の発見のごとく世界を賑わせた事件に対し、(もっと寛容な社会であってほしい)という意見をあちこちで聞いたり読んだりしたが、それにはかなり違和感を覚えた。それよりだいぶ前に、iPS細胞を使った手術に成功したと発表した日本人研究者のニュースが流れた事があった。結局それはまやかしであったと分ったが、その時の叩かれようと昨年の件とでは、ずいぶん対応が違うと思ったものだ。

これもある意味、「自己基準と他者基準」かと茶化したくなるが、寛容、非寛容も、人により適用のされ方が異なるのはおかしくないだろうか。それはやはり、問題の性質で分けたい。寛容にと、問題をうやむやにするのではなく、その背景を明らかにする事は必要だと思う。それは、個人を糾弾せよという事ではない。寛容にとの声に、その辺りを一緒くたに捉えている人が多いと感じた。
 
世の中には、自己基準を振りかざし、他者を追従させる事に意義を見出しているとしか思えない人も、多々見受けられる。些細な事での、他者への指摘もその類であろうか。ややもすれば、正しいかどうか、事実かどうかというより、主張する者の面子の問題になってしまっていたりする。巷での、ちょっとした喧嘩の大半がそうであるかもしれない。

自然の摂理は別にして、世の中に絶対正しいと言える事は、どれほどあるのだろう。今後私は何かを主張すべき時、無用な摩擦を避け、有益な議論へ向きやすくするためにも、「自己基準と他者基準」ということを、いつでも心に留めておきたい。

世界を知るというのは、自己と他者の違いを認識するということであると改めて思う。その風土から生まれでた文化・人の暮らしはさまざまだ。その違いを求めて、人は旅したくなるのだろうか。思いは更に飛ぶ。