照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

雪の日に思う

昨日の朝は数時間であったが、東京でも雪が舞っていた。駅のホームで電車を待つ間、神社の丈高い木々に降り積もった雪を眺めながら、これまで美しいと感じた雪景色のあれこれを思い出していた。
 
取り残された柿にふんわりと帽子のような雪、黒ずんだ石垣の窪みに吹き溜まった雪、それらの回りをくるくると楽しそうに舞いながら降りてくる雪。どれも、コントラストがきれいだった。とりわけ印象深いのは、夜間、線路でポイントを暖める融雪灯だ。線路に積もった雪の間に、ちろちろと揺らめく炎に私は見入っていた。あのような光景は、まだどこかで見られるのだろうか。それとも、長い歳月に、より幻想的な思い出になってしまっているだけなのか。
 
雪が降ると、きまって思い出す絵本もある。エズラ・ジャック・キーツ作『ゆきのひ』(木島始訳・偕成社)だ。この本を知ったのは、私が大人なってからだ。今はもう手許にないが、ピーターが雪遊びする姿、お風呂でほっとしている様子、ママの優しさは、いつでも心に浮かんでくる。そしてピーターに、自分の子供時代が重なる。
 
朝、目が覚めて、雪が積もっていた時の嬉しさは、幼い頃だけのことではなかった。降雪が、数回あるかないかという関東の比較的温暖な地で育った私は、雪が大好きであった。真っ白い雪の上を歩く楽しさは格別で、はんこのようにぺたぺたと長靴の跡をつけながら庭を歩いた。学校へ行きがてら、ついでに友人の家の庭にまで踏み入った。雪だるまを日陰に置いて、いつまでも溶けない事を願ったりもした。ただの汚れた塊になっても、学校から帰ってくるとちょっと足で踏んでみた。元が雪であることだけで、よかった。
 
 
沢山雪が積もった日は、登校してもあまり勉強はせず、ほとんど一日雪合戦だったような気さえする。小学生の時ばかりか、中学でも同様であった。クラスばかりか、学年も入り乱れて雪を投げ合った。だが、あまり大勢で校庭に出ると、すぐに土が見えてしまったようにも思う。高校でも教師によっては、体育の授業でもないのに雪合戦をさせてくれた。思えばずいぶんのどかな時代であった。今でも雪の少ない地域では、ときたまの雪を、そのように楽しませてもらえるのだろうか。
 
雪を厄介者のごとく感じ始めたのは、いつごろからであっただろう。後始末の大変さや、積もった雪が凍った翌朝の歩き難さや、電車が止まってしまう不便さにばかり、注意が向くようになってから、雪と親しむ気持ちがぐんと減った気がする。雪国に暮らす人からは、何を甘っちょろい事をと叱られそうだが、都会に住む人はかくも自然から離れてしまったのだ。雪ばかりか、自分に都合悪いお天気には、つい不平が頭をもたげ出す。「しょうがない、自然のことだもの」とか、「雪だって降るさ、大寒だもの」と、おおらかに構えていたいが、なかなかそうもいかない。通勤の朝は、いつもより早めに出勤する。もう少し、自然に合わせたような、楽しむような暮らし方に変えるべきかなと思ったり。雪の日は、へっぽこ頭を思索的にしてくれる。