照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

詩 風に思う その2

私は誰かの行為を非難したくなった時、裁くのは私ではないと、いつも自分に言い聞かせている。ではそれをするのは誰かと問われても、私などには思いも及ばない人智を超えた大きな力としか答えようがない。自分の中に神の存在がないためか、どうしても神とは明確に言えない。今後もずっと考え続けなければならない、自分への課題だ。

なぜそのように考えるようになったかというと、自分の言動は必ず自分に返ってくるという経験をしばしばしたからだ。

因果応報という言葉を、私はあまり好まない。何でもかんでも、その一言で片付けられるはずもなく、それで済まされるには事が大きすぎる場合もある。だが、因果関係があってもなくても、行為の結果として自分を振り返させるようなできごとは起こる。より大きな問題へと動く前に、自分を気付かせてくれるためかもしれない。

例えば仕事でも、当方に非がないとばかりに、先方の些細なミスについ言葉が過ぎたりした場合、次は自分が先方と同じ立場に立たされる事がよく起こった。これは自分ばかりではなく、同僚にも同様に起こった。製品へのクレームに結びつく重大な場合でも、個人を責め立てたところで再発は防げない。その前段階には、必ず小さな事が起きているのだが、それに気づかずにきてしまった結果だったりもする。ただ、今は問題がちょっと違うので、これはひとまず横に置く。

先の話に戻って、分かり易いように簡単に言えば、例えば製品の誤出荷があったとする。その場合、自分が矢面に立って取引先に真摯にお詫びすると、少しのミスにも厳しい会社以外は、クレームにもコンプレインにもならずに事なきを得て済んだりした。*(私の勤務先では、度合によって提出書類の言葉を区別している)その煩わしさを思い、ミスした相手に強い調子で苦情を言ったところで、恐縮している相手同様自分の気持ちも晴れない。それよりは潔く、自分が謝るのを引き受けようと覚悟を決めた方がすっきりするし、上手くもゆく。但し、取引先へ書類を提出する程に事が大きくなった場合はまた別の話になるが、今はそれ以前で済んだ例を取り上げている。

経験から学んでいくうちに、例え自分のうっかりミスで何か起きた場合でも、大きな問題に至らず、事がスムーズに運ぶのを感じた。不思議とどこかで助けられる。仕事関係の事なのであまり詳しい例は書けないが、本当に肝を潰すような事も起こる。大きな力に助けられたと感じられる時、私は、自分の行動を洗い直してみる。

職場内でのできごとも、個人での生活に於いても同様だ。自分は間違っていないと思う場面でも、相手を非難したい思いを飲み込んで黙っていると、相手に非がある場合は、相手に問題とは無関係のようなちょっとした事が必ず起こる。その逆もある。虫の居所によっては我を張ってしまったりもするが、その時は、自分に内省を促すような何かが起こる。

どのような場面であろうと、同様の事が何度も繰り返し自分に起こり、また人にも起こるのを見てきた結果、私は、裁くのは自分ではないと考えるようになった。一見何の因果関係もないところへ、その行為の結果として起こる。人によっては、健康問題として起こる時もある。

突飛なようだが、そのような時、人は平等だと感じる。金銭だけではなく健康問題もひっくるめて、皆プラスマイナスゼロになると痛切に感じさせられる。誰かひとりが、不当に得だけも損だけもしない。首を傾げるような行為には、必ず廻りまわってその結果がもたらされる。だから、誰かの行為を自分が裁く必要はないと思う。自分が裁きたくなる時、その底には、妬みや僻みといった自分の満たされない思いがないだろうか、言葉を発する前に、今一度点検してみたい。
その3に続く