照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

詩 風に思う その3

今度は個人ではなく、東電の元幹部が、再び不起訴というニュースに疑問を感じたことから、社会的責任ということについて考えてみたい。会社でのお昼時、福島第一原子力発電所敷地内の放射能高濃度汚染水が、ますます増え続けているというニュースの映像に暗澹としたが、その後で、この件を知り更に暗くなった。

不起訴の理由は、津波は予測できなかったということだが、むしろそれ以前の問題のように思える。ドイツ国営放送制作の福島第一原発事故に関する映像をユーチューブで見たが、事故は起こるべくして起こったと強く感じた。これを見れば、経済効率を優先した結果と誰しも思うのではないだろうか。この番組では、佐藤元福島県知事辞任の背景にも触れているが、巨額の利権が絡むところでは、私などが及びもつかない事が起こっているという事実に言葉もない。

だが、『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著・講談社現代新書)の紹介にもあるように、「もはや裁判所に正義を求めても、得られるのは絶望だけだ」ということらしい。この本を読んでいない私が、内容について言及するのは差し控えるが、今回の不起訴の判断に合わせて考えると、何とも救いようがない思いだ。

原子力発電については、私に難しい事は分からない。だがフランスから返された使用済核燃料が、青森県六ヶ所村に置かれて以降、これをどうするのかと単純に思っていた。だが、福島第一で事故があるまでは、いつの間にか自分の意識からも遠のいていた。しかしあれ以来、ゴミの問題も含めて考えると、どの地域でも原子力発電所再稼働には納得できないでいる。経済発展のためというが、今さえ良ければいいのかと疑問だ。自分たちがいなくなって後の未来は、どうでもいいという事なのか。また、保存している容器が、未来永劫大丈夫と言えるのだろうか。なんだか、無責任過ぎるように思う。原発には何の知識もない私だが、かつて、『朽ちていった命 被曝治療83日間の記録』(NHK東海村臨界事故取材班」・新潮文庫)を読んで、本当にさまざまな事を考えさせられた。

『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』(半藤一利著・文藝春秋)を読んで、失敗よりもむしろ、失敗したことへの責任を問われないことに、なぜだろうと思っていたが、その体質は依然と続いているということだ。上層部は、いつでも責任をうやむやにしたままで、トカゲのシッポだけが切られて決着がつく。なぜへの答えは、まだ私にはない。温情主義だけでは、どうにも片付けられなく、解らないままだ。

自己責任ばかりが問題にされるが、社会的責任には寛容に過ぎないだろうか。ここ数年は、経営陣が法的責任を取らざるを得ない場合も多少出てきたが、東電との違いはどこにあるのだろう。私には、全く解らない事が多すぎる。福島第一での事故以来、テレビや新聞の報道には騙され続けてきたので、自分で納得のゆく答えを探すしかない。

それにしても、私たちひとりひとりが目覚めなければと思うが、それを邪魔するものは何だろう。私たちが、自己責任と救出の問題を一緒くたにしてやり合っているうちに、力を分断されている事に気づくべき時だとも思う。ようやく気がついたら、とんでもないことになっていたなんて事は避けたい。いつでも主体的に、"近くのできごとに  立ち向かうのは近くの私たち"でありたい。