照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

はぐるまは北風の中へ

少し心が疲れた朝は、叶わぬ夢でひととき遊んでみたい。元気がでたら、勢いをつけて北風のなかへ出かけよう。はぐるまのままでも、しばらくはいいかなと思えてくる。

 くるあさごとに      岸田衿子

くるあさごとに
くるくるしごと
くるまはぐるま
くるわばくるえ

『詩のこころを読む』茨木のり子・岩波ジュニア新書・P・83

”この作者は「くるわばくるえ」を地でいっていて、”(P・85)というように、何とも自由に、自分時間で生きていらしたようだ。どれほど待ちぼうけにあっても、行動を共にしたいほど魅力ある人っていいなと思うが、果たして自分にそれだけの度量があるかどうかが問題だ。「この電車に間に合わなければ野宿すればいい」と、凡人の私には達観できない。スケールの異なる人と付き合うには、自分のスケールも大きくなければならない。
"社会生活をするには、さまざまな約束を守ったほうが人に迷惑をかけず、すべてなめらかにゆくわけですが、ただそれだけのことにすぎません。そしてこれができないと落伍者にされがちなので、みななんとなくがんばるわけです。”(P・85)

と、言われても、勤めているとそうもいかない実情がある。養老 孟司いうところの「脳化社会」に住んでいると、すべては約束事で成り立っているからだ。だから電車が数分遅れても、お詫びのアナウンスが流れるのだろう。それとも単に、クレーム対策か。大きな都市に住んでいると、予期せぬ事は少しでも許せない心持になってしまうのだろう。自然のことが原因での交通機関の遅れにも、しょうがないというというより、困りますと答えている人が多い。でも日本のように、何でもスムーズにゆく国の方が、稀有かもしれない。


かつてバンコクからアユタヤへ行った時、列車の出発が1時間半以上も遅れたが、日常の事なのか騒ぎ立てる人もなかった。午前7時発の普通列車に間に合うように駅に行った私は、二等席20バーツ(3年前で約60円位)の椅子に座ってただじっと待っていた。8時に国歌が流れると、車内の人もホームに居る人も、ほとんどの人が立ち上がったのには驚いた。国歌が終わると、皆その直前と同じように、物を食べながら再び出発を待っている。

水だけ買って列車に乗った私は、食べ物を買いに降りようかどうしようか迷いながら座っていた。いつ発車するのかも気がかりなので降りずに、結局、出発してから、車内を回る物売りからガパオライスのような弁当を買った。20バーツの電車賃に、遅れに文句を言うどころか、安すぎて申し訳ないような気さえした。帰りは、遅れたうえにものすごい混雑で立ちっぱなしだったが、20バーツでは仕方ないと思えた。その金額では、屋台の麺さえ食べられない。むしろ今では、良い経験だったと思う。遅れが当たり前なら、待つ間も乗車時間と考えて、予定を立てればいいだけだ。但し、往復3、4時間のゆとりをみる必要がある。それを楽しめれば、どの国を訪れても列車の遅れなど気にならなくなるだろう。

海外に住んでいらっしゃる方のつぶやきなど読んでいると、日本で当たり前な事が、全くそうではない事にむしろ驚かされる。例えば、郵便物が個人宅にきちんと届くことが珍しかったり、公的機関に何かの申請に行った場合、窓口の担当者によって受け付けてもらえたりもらえなかったりと、いろいろ面食らう事が多いようだ。最後に、「だってイタリアだもん」とか、「だってフランスだもん」と諦めムードたっぷりだ。学業の合間に和食の店でアルバイトしている方は、クリスマスや大晦日などには、休むか早上がりの従業員が多く、仕事に出ている自分たちに負担がかかって大変と嘆いていた。

良い悪いはともかく、ひとりひとりが全くはぐるまにはなっていない。公務員も同様だ。ローマでは、市内警備担当として大晦日に出勤予定の警官のうち85%が、体調不良で欠勤して問題になったというニュースが今年初めに流れたくらいだ。日本では全く考えられない事だ。時には、「くるまはぐるま くるわばくるえ」と思っても、実際には休まないだろう。

私も呪文のように、「くるまはぐるま くるわばくるえ」と言いながら、歯車になることから抜け出てみたい。そんな時に、旅に出たくなるのかな。かざぐるまを回す風になるのもいいかもしれない・・・な~んてね。と言いながら、ひとときの夢から醒めて、今日も勤めに出かけて行く。