照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

つつましい朝餉に喜びを

規格はずれのちび人参が一袋にたくさん入っていたので買ってみた。大きい方がよかったかなとちらりと頭を掠めたが、意外に使いやすい。皮ごと端から小口切りにして、キャベツと一緒にガラスープでやや長く煮込んだ。ご飯を入れて卵を落とし、白身部分に火が通ったら出来上がりだ。食べる前に生姜をすりおろして入れる。

スープを飲むと、キャベツと人参のエキスが口に広がってとても美味しい。ある朝は大根と煮てみたら、これまた美味であった。紅白の取り合わせにふと気づけば、自分の誕生日であった。全くの偶然に、ハッピーバースデーを自分へ歌ってお祝いする。
 
昨日の朝は、最低気温がマイナス2.4度だそうで、暖房しない私の部屋の温度も9.7度と最低記録を更新した。だが、お弁当の準備や朝ごはんの支度に忙しくしていると、寒さも気にならない。一段落してから、長ネギたっぷりのスープご飯を頂くと、身体も温まり幸せな気分だ。我知らず、ああ美味しかったと言葉がでる。毎朝変わりばえのしない粗末な食事だが、いつでも私には極上に思える。栄養ということなど意識せずとも、野菜たちの生命が感じられて、身体にも心にも力が漲る思いだ。

でも人から見れば、貧しさの極致に映るのかもしれない。いつだったか、ある有名な方のブログを読んでいたら、国が貧しくなるとは、個人が貧しくなるとは、というテーマで例が挙げられていた。何と、現在の私の食事にぴったり当てはまるではないか。自分の中に貧しさの意識がなかったので、ちょっとした驚きであった。

物を持たない暮らしを標榜して以来、物は使い切るを心掛けているので皮も芯も使う。また、野菜の持ち味を活かすため、味付けは至ってシンプルで、砂糖も使わない。そのようにしているうちに、凝った料理は作らなくなってしまった。人が見れば、まさに清貧の食卓となってしまった。でも本人からすれば、最高の食事となる。とにかく、何を食べても美味しく思えるからだ。

グルメからは程遠い私だが、3星レストランも経験している。そのような店では、どのような料理やお酒が、どのようにサービスされるのか、また食器などはどのような物を使用しているのか、更に客の立ち振る舞いにも興味があった。池波正太郎が、若者は、1ヶ月のうち殆どを安い食事で済ませてでもお金を貯めて、自腹を切って一流といわれる店で食事する経験も大事というような事を書いていた。とっくに若者の域を過ぎていた私もそれに倣って、分不相応な店で食事をしたのだが、いい経験だったと思う。

高級な店をまったく知らなければ、一歩足を踏み入れただけで舞いあがってしまい、落ち着いて味わうまでは辿りつけないかもしれない。何度か経験してゆくうちに、そのような店での振る舞い方も身に付き、自分なりの味への基準も次第にできてくる。そうすれば、どのようなレストランでも、店構えには惑わされなく判断できるようになる。

すると、その時々に応じて、どこでも食事が楽しめるようになる。つまり、清貧も贅沢もそう違わないと分かってくる。要は自分が、満足出来ればいい。そして、食べることは、誰かの生命を頂き、自分の生命としてつないでゆくことと思えるようになる。

美味しい食事に能書きは要らないとさる高名な方が本でおっしゃっていたが、確かに身体も心も喜ぶ食事を、有り難く頂けるのが一番の幸せだ。というわけで、今日も私は、理屈など無しに、美味なるスープご飯に幸せを感じようと、朝餉の支度にとりかかる。