照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

今話題のコラムに思う

作家が新聞に書いたコラムが、いろいろと物議をかもし、とりわけアパルトヘイト擁護のごとく思われる意見に、各国が反応しているようだ。私は、居住分離にはもちろんのこと、意見全般に疑問を感じる。記事を読んでいて、とりわけ、この方に抜き難くある選民意識のようなものを感じた。

”日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。”と言うが、今の日本は魅力ある国だろうか。例え魅力があったとしても、来てくれる人の国について、その文化や習慣などを知る努力さえせず、日本人がやりたがらない仕事だけを押し付けようとする物言いに、相手に対する敬意どころか、戦前の日本の資産家階級意識をそのまま堅持しているような態度が感じられてならない。

2/13の記事でも引用したが、詩人茨木のり子は、「本当に教育の名に価するものがあるとすれば、それは自分で自分を教育できたとき・・・。自分のなかに一人の一番きびしい教師を育てえたとき、教育はなれり、・・・」と、やはり詩人の石垣りんを評して言う。先の作家は、同年代の女性と比して格段に恵まれた教育環境にあった。だが、どれほど高等教育を受けようと、そのまなざしに、人に対する優しさや敬意が育まれてこなければ、「教育はなれり」から程遠かったということになる。また、介護の人は優しささえあればいいというが、こちら側に、その人への優しさが根底になければ上手くいかないだろう。

子供の頃から恵まれた経済環境の中で、自分基準でしか物事を考えないできたこの人は、自分の中に厳しい教師を育て得なかったというよりむしろ、育てる必要さえないと思っていたのかもしれない。ご本人は、正論を言って何が悪いくらいに思っているのかもしれないが、何か哀れさを感じる。また私たちは、このような意見に振り回されるのではなく、これをきっかけに自分の問題として捉え、考えてゆくのが大事だと思う。

ご本人の見かけや著書を通しての主張がどれほど立派に見えようと、砂上の楼閣でしかなかったのかと思う。この方の書いた、『汚れた神の手』を読んだのは、若い頃だが、ずいぶんと深く考えさせられたのを思い出す。既に手元にはないが、もし今読み返したなら、どんな感想を持つだろうか。今尚鮮やかに訴えてくるものを持っているだろうか、それともやはり砂の上のお話と感じてしまうだろうか。もし色褪せて見えるのなら、自分の不明を恥じるばかりだ。