照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

幸せは誰かの哀しみの上にあることを忘れずにいたい

人の幸せは、誰かの哀しみの上に成り立っていると思うことがある。身近なところでは、受験での合格、不合格、かなり重い例えとしては臓器移植がある。ファストファッションの舞台裏なども、そこに含まれるかもしれない。各衣料品メーカーの、海外生産工場での労働環境の劣悪さについての記事を読んでから、そのような事を時折考えていた。

私も部屋着やソックス類は、専ら量販店で購入している。安く手に入れられて助かると、何も考えずに利用していた。だがさすがに100円ショップでは、陳列されている品々に、原価や作る人々への思いが湧く。衣料品も同様なのに、さほど深く考えた事はなかった。人件費が低く抑えられる地域で生産しているから、安く供給できるのだろうと単純に考えていた。

ファストファッション各社の、カンボジアにある下請け工場での労働実態を知り複雑な思いに囚われた。だいぶ前、アメリカの衣料品メーカーが、中南米等で同様の事をして話題になった。だがその時は、自分の事に引き寄せて考えられず、全く関心がなかった。今回は、日本国内のメーカーも関連しているので、ようやく我が事と思えた。

ジョージ・オーウェルの『動物農場』を持ち出すまでもなく、理想の社会など無いことは十分承知している。いつの世も、力の強い者と弱い者の構図はでてくる。それでも、貧しい地域の誰かの犠牲の上に成り立つ、豊かな地域の人々の幸せな暮らしという構図を変える道はないものだろうかと考える。誰もが、最悪の環境下で、長時間労働、低賃金を強いられることなく、労働の対価に見合う収入を得て、普通の暮らしができればいいと願う。それには、供給される側の意識改革も必要だ。

安いからとどんどん物を増やし、使い捨てにしてゆく。衣料品ばかりか、食品や他の事も同様だ。私のように、価格に見合った品々を、大切に長く使いたい主義の人間は、そんな人ばかりが増えたら経済が回らなくなると、頭の良い方々から叱られそうだ。

でも、何かおかしくはないだろうか。バカな奴と言われようが、時代錯誤の理想主義者だとどやされようが、やはり私は、何事もいちいち納得するまで自分で考え、行動してゆこうと改めて思う。

そして、自分の幸せは誰かの哀しみの上にあるということも意識し続けていたい。やがていつか、誰かの幸せが、自分の幸せに繋がっていると思えるようになればと願う。とはいえ、これからも買い物のたび、陳列棚の前で悩むに違いない。誠にちっぽけな人間なのである。