西洋を理解することの難しさ
サンタ・マリア・ノッヴェラ教会
教会の天井
そしてしばらく椅子に座っているうちに、自分が、絵画を含めた西洋の文化を理解することは、本当には難しいと悟った。知識を得れば理解できるという訳ではないということが、しみじみと分かった。
絵画や建築だけを取り出して鑑賞することは、十分可能だ。だがそれだけでしかない。別にそれ以上を望んでいるのではないが、宗教を理解したうえでこの地にある程度の期間住まない限り、文化を理解するどころか近ずくことすらできないと思った。
フィレンツェに向かう朝、早朝ならサン・ピエトロ大聖堂に入りやすいという記事を目にし、7時半前に着いて驚いた。観光客ではなく、イタリア人の家族連れが、サン・ピエトロ広場を取り巻いて、入場待ちの長い列を作っていた。観光客はかなり少ない。
日曜日のミサに出席するのだろうか、皆さん晴れ着で、幼い子供達もワイシャツにジャケット着用だ。但し、下はジーンズにスニーカーの子もいる。結婚式に出席するかと思うほどおしゃれしている人もいる。観光客だけが、カジュアルな格好だ。私も家族連れに挟まれて場違いな雰囲気の中にしばらく並んでみたが、8時に開場してからもあまり進まない行列に諦めてその場を離れる。
それにしても先頭の人たちは、何時頃から集まったのだろう。また、生活に宗教が根付いていることにも驚いた。一族郎党誘い合わせて来るのか、地下鉄の中でもしきりに連絡を取り合ったり、駅で待ち合わせしたりしていた。日本でいえば、初詣の感じなのだろうか。それとも毎週のことなのだろうか。興味が尽きないが、1日眺めているわけにもいかない。10時半の電車に乗り遅れてしまう。
また、フィレンツェに着いてからも、サント・スピリト教会で、入り口から入ってくるなり片膝ついて十字を切ってから見学を始めた若い人にハッとした。教会は、見学する場所以前に、祈りの場であるという当たり前の事に気づかされたのだが、これは私にとっては衝撃であった。
椅子に座ったままそれらのことを思い出しながら、キリスト教徒ではない自分を意識していた。そして教会から、絵画だけを切り離して鑑賞したつもりになっていてもだめだと、改めて感じた。と同時に、頭ではなく、自然な感覚で西洋を理解することは到底できないだろうが、それでも鑑賞し、その雰囲気を感じたいと強く思った。
何だか上手く言い表せず矛盾しているようだが、フィレンツェは私に様々な疑問を投げかけてくる。そしてこじんまりしたこの街は、強力な磁石のように私を引きつける。何しろ食べ物が美味しい。食べ続けていたら、いつかこの街をすんなり理解できるようになるかな、なんて虫のいいことをふと思う。