照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

一大産業となった医療と高齢者医療費負担に

先日の健康診断では、健診センターに7時頃到着した。これまででは、一番早い、とはいえ、10分位の差だ。だが、次々と大型の健診バスが繰り出してゆくのを見るのは今回が初めてであった。それぞれのバスには、数人の健診スタッフが乗り込んでいる。その様子を見ながら、今や医療は、一大産業なんだとの実感が湧いてきた。

日本では、既に四人に一人が65歳以上という超高齢社会だ。今後、医療の需要は増すばかり。国は医療費の抑制を考えるが、懐を直撃しない限り、高齢者にはどこ吹く風だ。かつては、タダだからと置き薬的に必要以上の湿布薬などもらった話も聞いた。タダの物などないのだが、その差額を支払っている者へは思いが及ばない。もっとも飲み薬などは、本当に必要かどうか自分では判断できない。だが、処方されるまま持ち帰っても、飲まずに捨てられる薬の年間合計額に愕然とする。

なにゆえ、このような無駄を放置するのか。不必要な薬を出しすぎているのではないかと、高齢者の医療費負担を強いられる現役労働者の一人として素朴に憤る。現に、拠出負担の割合の高さに耐えかねて、企業独自の健康保険組合を解散せざるを得ないところも多々あった。

だが、加入者自身も、自分の負担は天引きで目に見えないためか、さほど関心を持たない。だから製薬会社の高業績報道にも、カラクリを考えることもない。むしろ、高ボーナスに羨ましさを感じたりする。それが回りまわっていると思えばいいのかもしれないが、結局はじわじわと、自分たちの首を締めているのだ。捨てられる薬への自分の負担が、例え一粒にも満たないとしても、決して認められることではない。

健康保険だけではなく、税金の行方にしろ、徴収されるがままで、全く気にも留めないのは、天引きだからだと思う。私たち自身、この方式に長い間慣らされてしまって、自分で納めるより楽でいいくらいに思っているのかもしれない。

これまでどれほどの無駄が指摘されたことか。だが、水面下では、相変わらずダダ漏れ状態が続いているのかもしれない。何しろ、使う側にも、人から集めたお金という意識が欠如している節もある。

健診の開始を待ちながら、さまざまな思いが次から次へと、とりとめもなく浮かんでくる。そして、蟻の如く地面を這うように働く己が姿と、タワーマンションのように聳える国との図が、突然見えてくる。

国って一体何だろう。個人の集まりから、遥か遠くに隔たってしまった怪物なのかもしれない。どうしたらそれを、個へ取り戻せるだろうか。か弱い蟻だって、象を倒すこともある。それには結局、私たち一人ひとりが、意識を持つしかないのか。

たまたま目にした健診バスは、気にしなければ見えないでいる多くのことを、そのほんの一端を、私に気づかせてくれた。もっといろんなことに目を向ける必要があると、しみじみ感じた朝である。