出会いは偶然の賜物ーそれは親子でも同じこと
魚斉
お料理の数々に感激したのはもちろんだが、会話しながら、ぐんぐん自分の中に、力が湧いてくる思いであった。ややもすると、安泰にどっかり腰を下ろしたくなる私にとって、長男の話は、かなりの刺激となった。
私はこれまで、誰かを羨ましく思うことは無かったが、長男は例外だ。これぞと感じたら、すかさず飛び乗る。石橋を叩いて確認しているうちに、機が過ぎてしまったということはない。
やるかやらないか、判断も素早いが、ダメでもリスクを取る覚悟で向かってゆく。そんな行動力に加え、人と積極的に関わってゆく姿勢は、私にはないものだ。
自分のアンテナに従って、無防備とも危ぶむほどに、自分を全開してゆく。素直過ぎるのが欠点になるのではとの親の思惑からは外れ、むしろそれが、いい方へと作用している。
いい伴侶を得て、既に数年。親としての役割は終えたと思っている。子は、まさにかぐや姫と同じで、たまたま自分に託されただけだ。巣立つ時を越えて尚、自分の元へ引き止めるべきではないと思う。
グローバルな視点で自分の生き方を考えている子へ、応援こそすれ、足枷になってはならじと考える。自分の望むまま、自由に羽ばたいていって欲しいとのみ願う。
茨木のり子さんが、
"紀元前の中国の思想家、老子とか
荘子とかいう人は「天と地の精
気が凝って、露となるように、人
の生命もまた、そのようなもの
である」という考え方をしてい
ました。・・・父と母、男と女
とは仮の姿で、大地の精気が或
る日或る時、凝縮して、自分と
いうものが結晶化されているの
だーと思えば、・・・"
(詩のこころを読む・茨木のり子著・
岩波ジュニア新書・P15~16)
まったく同感だ。子は3歳までに、親への恩を返すと言われるが、既に、余りあるほど頂いている。今は、ライバルと言うには、影も見えないほど遥か先に行ってしまっているが、いつだって、チャレンジ精神を呼び覚ましてくれる存在だ。
いつまでも、子どもたちの後塵を拝してはいられないと心密かに奮起しながら、長男も次男も、私を親として生まれてきてくれてありがとうと思う。育つ間には、軟弱な私にとって厳しすぎる日々もあったが、むしろそのおかげで、人として鍛えられた。それら全てをひっくるめて、今、敢えて感謝を伝えたい。
血のつながった親子とはいえ、出会ったのは偶然の賜物。そこにしがみつかず、個として、そこを新たな出発点としたい。