照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

出会いは偶然の賜物ーそれは親子でも同じこと

f:id:teruhanomori:20151025173059j:image
魚斉 

週末、長男夫妻のお招きで、自由が丘の魚斉へ伺った。個人のお宅を改装して、趣ある和食の店として上手く仕立ててある。入り口から左手は、元お庭だったのだろうか、今は心地良さそうなテラス席になっている。

お料理の数々に感激したのはもちろんだが、会話しながら、ぐんぐん自分の中に、力が湧いてくる思いであった。ややもすると、安泰にどっかり腰を下ろしたくなる私にとって、長男の話は、かなりの刺激となった。

私はこれまで、誰かを羨ましく思うことは無かったが、長男は例外だ。これぞと感じたら、すかさず飛び乗る。石橋を叩いて確認しているうちに、機が過ぎてしまったということはない。

やるかやらないか、判断も素早いが、ダメでもリスクを取る覚悟で向かってゆく。そんな行動力に加え、人と積極的に関わってゆく姿勢は、私にはないものだ。

自分のアンテナに従って、無防備とも危ぶむほどに、自分を全開してゆく。素直過ぎるのが欠点になるのではとの親の思惑からは外れ、むしろそれが、いい方へと作用している。

いい伴侶を得て、既に数年。親としての役割は終えたと思っている。子は、まさにかぐや姫と同じで、たまたま自分に託されただけだ。巣立つ時を越えて尚、自分の元へ引き止めるべきではないと思う。

グローバルな視点で自分の生き方を考えている子へ、応援こそすれ、足枷になってはならじと考える。自分の望むまま、自由に羽ばたいていって欲しいとのみ願う。

茨木のり子さんが、
   "紀元前の中国の思想家、老子とか             
     荘子とかいう人は「天と地の精
     気が凝って、露となるように、人
     の生命もまた、そのようなもの 
     である」という考え方をしてい 
     ました。・・・父と母、男と女
     とは仮の姿で、大地の精気が或  
     る日或る時、凝縮して、自分と
     いうものが結晶化されているの
     だーと思えば、・・・"
(詩のこころを読む・茨木のり子著・
岩波ジュニア新書・P15~16)

まったく同感だ。子は3歳までに、親への恩を返すと言われるが、既に、余りあるほど頂いている。今は、ライバルと言うには、影も見えないほど遥か先に行ってしまっているが、いつだって、チャレンジ精神を呼び覚ましてくれる存在だ。

いつまでも、子どもたちの後塵を拝してはいられないと心密かに奮起しながら、長男も次男も、私を親として生まれてきてくれてありがとうと思う。育つ間には、軟弱な私にとって厳しすぎる日々もあったが、むしろそのおかげで、人として鍛えられた。それら全てをひっくるめて、今、敢えて感謝を伝えたい。

血のつながった親子とはいえ、出会ったのは偶然の賜物。そこにしがみつかず、個として、そこを新たな出発点としたい。