照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

かつて苦手だったものへの興味が湧くこともある

秋口から、いつもより更に早い電車に乗っている。混雑を避けようと、少しづつ早くなってしまった。学生もちらほらいて、今頃は丁度試験のシーズンなのか、右隣では、数学を解いていた。
 
(ユークリッド、少し大丈夫な気がしてきた・・)と、解き方を教えてくれた友人に、嬉しそうに言う。その声に、私もかつては、それを勉強したのだろうかと思えるほど、頭のどこにも残っていない。それとも、習っていないのか、もしくは、意識的に記憶から消し去ったのかと、ふと気になる。
 
左後方からは、和歌が聞こえてくる。「月みれば 千々にものこそ 悲しけれ 我身ひとつの 秋にはあらねど」 (大江千里)と、読み上げた後で、しきりに「・・秋にはあらねど、秋にはあらねど、秋にはあらねど・・」と同じ箇所を繰り返す。
 
私まですっかり、そこに入り込んでしまう。細切れに読むにはぴったりと、折りよく、『私の百人一首』(白州正子著・新潮文庫)を、バッグの中へ入れている。だが私だって、彼女たちの年頃には、和歌への興味はまったくなかった。覚えられないのも、無理はないなと思う。
 
そういえば前日は、電車を降りて歩き始めたら、枕草子の暗礁している女子高生もいて、秋からが覚えられないと嘆いていた。出だしの部分は調子よくトントンと入ってくるが、確かに、秋冬となると覚え難い。
 
私も古典を授業で習っていた頃は、試験のためだけに覚えようとしただけで、少しの興味も湧かなかった。関心を持って読み始めたのは、20代半ばくらいからであった。
 
夜、NKHラジオ第二をつけると、高校講座で、たまに古典の時間にあたることもあるが、なかなか面白い。だが私の場合、多分にそれは、年齢的なもので、今だからこそ、そのように言える気がする。もし、自分が高校生に戻ったとしても、やはり興味を持てないだろう。

ともあれ、学生時代に何のためにやるのと思った教科でも、今もう一度やってみたら、深いところまで学べるかもしれない。同様に、かつて苦手と思い込んでいたことでも、やってみると案外好きになるのでは、なんてことを考えた朝だった。