照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

数百年の時を経て仏師の祈りを想う

私は、散歩の折はもとより旅先でも、自発的に神社仏閣へお参りするということはほとんどない。人と一緒の時に、ついて行くぐらいで、初詣にしても、これまでの人生で数えるほどだ。また、たとえパワースポットと呼ばれる場所の近くに行くことがあっても、自分ひとりなら寄ることはない。

なぜかあまり足が向かないだけで、特に深い理由があってのことではない。仏像や建築物への美術的関心はあるが、神、仏そのものへの興味が無いのだと思う。しかし、仏像の前に立つと、自然と頭を下げ手を合わせたくなってくる。

だいぶ前、奈良・桜井の聖林寺で、十一面観音の前へ立った途端、光に打たれたような感じがして、思わず手を合わせたのは忘れ難い。

それは、形式的なことからはまったく遠く、何を願うのでもないのだが、ただそうせずにはいられなかった。信仰心もないのに、そのような気持ちになるのはなぜだろうと考えていたら、次のような文に出合った。

"・・・われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。"(和辻哲郎『古寺巡礼』P・ 37)

まさに芸術の力が、こちらの心へ働きかけてくるのだとわかる。それにしても、仏像の表情を彫る時、仏師の心の中には、どのような思いがあるのだろう。やはり、祈りだろうか。