照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

ちょっと心が疲れたら訪ねたい宮崎〜何にもないという空間に優しさがいっぱい

宮崎駅前で、酒泉の杜行きのバスを待つ間、ベンチで隣り合わせになった高齢の方と言葉を交わした時だ。「宮崎はガランとしてるでしょ」と言われる。友人の「宮崎は何もないのよ」が、重なる。確かに人は少ないが、人口比からすれば当然だ。

「でも、宮崎は人が良いです」と答えると、「良い人ばかりでもないですよ」とおっしゃる。そして、「人間関係は、なかなか大変です」との言葉に、「それは、どこでも同じですよ」と私も続ける。

人の多い少ないや、気候風土に関わらず、近所であろうと職場であろうと、趣味やボランティアの集まりであろうと、ひとたび誰かと繋がりができれば、向き合ってゆくのは大変だ。通りすがりの、自分に利害関係もしがらみも無い人間には、誰でも優しくできる。でも、関わりができた時点から、お互いに、相手に対するさまざまな感情が芽生える。

善意の心にも、微かな隙間から、嫉妬や負けじ魂が忍び寄ることもある。人と自分とのやり方の違いに、苛立つこともある。自分へ陽の当たらぬことへの不平が、頭をもたげることもある。

良い心だけの人はいない。皆、内部に湧き起こる負の感情を、どのように宥めようかと心を砕きながら日々を過ごしている。離れてみれば、何ということのない一人相撲だったりもするが、渦中にいる時にはそれが見えない。

人は、自分の思うように気持ちを受け取ってくれるわけではない。独り善がりの優しさが、相手を傷つけていることもある。それだって、善意と思い込んでいれば、当人には解らない。もしくは、ひねくれた心が、捻じ曲げた解釈をする場合もある。自分の心の持ち方次第ではあるが、何れにせよ、社会の中で生きてゆくというのは容易くはない。

「とかくに人の世は住みにくい」という、夏目漱石の『草枕』の冒頭部分が浮かんでくる。かといって、仙人のように一人山中に暮らすわけにもいかない。人は、人とのつながりの中でこそ己を発揮できる。人の眼が嫌と思っても、その眼があるからこそ張り合いもでる。まったく心は天邪鬼だ。何でも自分の感じ方ひとつで、良くも悪くもなる。

考えながらふと窓の外に目をやれば、ベビーブルーのような水色から、だんだんに濃くなる青い空、ところどころにぽっかりと白い雲、川が流れ山があって・・・。このような景色の中をバスに揺られていると、人の暮らしには、ある程度の空間が必要だと思えてくる。

やはり、宮崎はいい。ガランとした分、優しさが漂っている。その優しい空気をまとった人たちがたくさんいる。空港に降り立ってから出会った人、それぞれの顔が浮かんでくる。二言三言交わした言葉から、人の良さが立ちのぼる。そんな宮崎の地で、疲れた私の心も、すっかり洗われた気がする。