照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

「いらないプライド」という記事に思う〜今の自分が見えない哀しさ

昨日、林伸次さんという方の「いらないプライド」という記事で(note)、電車の中で、30代と60代半ばの男性が小競り合いになって、60代が、「俺を誰だと思っているんだ」と叫んだエピソードに、人前でそのような言葉を発してしまう神経に驚いた。ちなみに、見てみても何者なのか、まったくわからなかったという。

そこは単に話の導入部なのだが、私はそこで止まってしまった。裸の王様もいいところだが、何だか、可笑しさを通り越して哀れを誘う。所属する場では一目置かれている、もしくは本人だけがそう思っていたのかもしれないが、関係のない他者にとっては何者でもない。それが見えなくなるのは、まさに、何の足しにもならない「いらないプライド」が邪魔しているのだろう。

昨日書いたこととも重なるが、歳がゆくほどに自分を律するのは、かなり大事なことだ。敢えて意識しない限り、なかなかできるものではない。(実るほど頭を垂れる稲穂かな)という言葉もあるが、本当に実力のある人は、ことさら自分を誇示することもなく謙虚だ。自尊心は必要だが、やたら振り回すものではない。

現在の自分が空っぽな人ほど、過去の自分にしがみつく。それを避けるためにも、不要なプライドなど、真っ先に捨てればいい。要らないものが無くなれば、視野も広がる。自分は只の人との自覚を持っていれば、不毛な争いにも発展しない。つまらぬ怒りはまさにエネルギーの無駄で、自分を生き難くするだけだ。

堪え性が無くなるのは老化の現れかもしれないが、柔軟に柔軟にと、おまじないのように唱えて、せめて精神の硬化を遅らせたいものと思う。それにしても、高齢化が更に進み、「いらないプライド」が、あちこちで衝突を繰り返す図なんてゾッとする。過去の栄光なんて忘れて、新たな自分を見つけた方が幸せだ。

自分の今後の生き方を含め、さまざまなことにヒントを得た記事であった。