照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

絵はわかるわからないではなく引き込まれるかどうかだ

絵を見ることを、どこか高尚なことのように思っている人がいるけれど、そんなことはまったくない。また、絵がわかるって、知識のあるなしには関係ないと思う。

"絵の物識りになることが、絵がわかるということではない"と洲之内徹は言う(洲之内徹・『おいてけぼり』・世界文化社・P・220)まさにその通りだと思う。余計な知識は、むしろ素直な絵の見方を妨げるかもしれない。また、高名な画家の絵だからとか、高額な絵だからって、自分にピンとこない絵を、無理矢理素晴らしいと思い込む必要もない。

洲之内徹は、宮忠子「佐治谷の杉」を評して、"宮さんのこの杉は、先頃完成した東山魁夷の、唐招提寺障壁画の杉よりずっといい、と私は思う"(同上・P・128)とも言っている。なかなかこのように言えるものではない。まして、比べる相手は、高い評価を受けている画家だ。だが、これこそが、素直に絵の良さを見るということであろう。(注*障壁画完成は昭和57年)

自分の心に感動を呼び起こす絵と出会えたら、そこが自分にとっての、絵の世界への扉だ。わかるわからない以前に、その絵に引き込まれるかどうかだ。引き込まれたら、心ゆくまで見ればいい。絵が好きって、そういうことだと思う。

成り行きで画商となってしまった洲之内徹が、気に入った絵を安く手に入れることができたのも、自分の感性に従ったからだ。その頃のことを洲之内徹は、次のように懐古する。"長谷川利行などは、あんなものは絵かきじゃない、と高名な批評家が方言してはばからなかった時代である"(同上・P・220)もっとも、長谷川利行は明治生まれ、洲之内徹も大正の初めと、古い時代の人たちだ。今日では、かなりの高値になっている、

私が初めて長谷川利行の「新宿風景」を見たのは19歳の時、竹橋にある国立近代美術館の常設展であった。凄まじい生き方をした人とは結びつかない、スコーンと抜けたような、澄んで明るい空気感に惹かれた。以来、大好きな画家だ。

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長谷川利行靉光像」展覧会チケットより

これは、歿後60年ということで、鎌倉の神奈川県立近代美術館で、2000年に開かれた展覧会の時のチケットだ。チケットなどは殆ど捨ててしまっているが、この靉光を描いた絵が気に入って、ずっと会社の机に飾っていた。靉光本人が描く自画像とは異なり、何とも軽やかで飄々としている。この絵を見ているだけで、心の中が澄んでくるような気がしたものだ。

思い出していると、直ぐにでもいろいろな絵に会いに行きたくなってくる。画集ではなく、やはり実物の前に立ちたい。洲之内徹は、"心に感動がなければ、物は見ないに等しい"(同上・P・199)とも言っている。これまで、目に入れながらも、通り過ぎてきてしまった絵や、出会えなかった絵が、私を待っていてくれるかもしれない。歳月が、見方を変えてくれるということもある。楽しみだ。