照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

映画は自分が撮るつもりになって観るのも面白そうだ

『映画を見る眼』(小栗康平日本放送出版協会・2005年)を読んで、今更ながらではあるが、映画と原作はまったくの別物と教えられた思いであった。私はこれまでずっと、(原作がある場合だが)原作を映像化したのが映画で、両者をほぼ同様と考えていた。だが映画は、監督を通して再構築された物語なのだ。

会話している二人をどのようなアングルで撮るか、小津安二郎監督作品を例に挙げながら、あるいは自作品の『泥の河』での具体例に触れたりしながらの解説に、監督の解釈がそれぞれのシーンに色濃く反映されていることが良くわかった。セリフだって、逐一原作通りというわけではない。

ここで初めて私は、例え原作を台本のように使ったとしても、監督の眼を経る以上、同じ物とは成り得ないということに気づかされた。それは、原作を忠実になぞっているように思える、『バベットの晩餐会』(アイザック・ディーネセンIsak Dienesen(本名カレン・ブリクセン)・筑摩書房・1989年)でも同じだ。このところ映画を見て、映画と原作について思い巡らすことがあったのだが、これでスッキリした。

先日観た映画に、島尾敏雄の名が出てきたので、小栗康平監督の『死の棘』なども思い出していた。すると丁度良いタイミングで、大学図書館の書架に著書を見つけた。ついでに、自分に都合良く辻褄を合わせると、区立の美術大学では映像制作も授業にあったはずなので、テルハ美術大学だって、映像に関する知識は必要ということになる。すぐさまリラックスチェアに座り、その場で一気に読んだ。

もともとこの本は、教師向けの講義が土台となっているので、映像全般についての説明が非常に分かりやすい。何冊もの絵画関連の本の読み難さと格闘した後では、普通の事を普通の言葉で書いてくれる本は、スイスイと頭に入ってゆく。

講義の一環として、教師たちに簡単なビデオ撮影をしてもらう話が出てくるのだが、作品には、撮影者のすべてが反映されるというところが非常に興味深い。よく考えれば当たり前のことだが、私はこれまで、映画をそのように観てはこなかった。そういった意味からも、これからは自分が撮るつもりになって映画を観るのも面白そうだ。

ところで『死の棘』では、夫と妻が並んで、共に空を見上げるシーンがあるのだが、それはとても印象に残っている。この本が映画になると知った時、あのようなやりきれないほど暗い物語が、果たしてどのような作品となるのだろうと思ったが、このシーンに、未来への希望が託されたように感じられた。

これが、観る者への監督からのメッセージ、つまり監督による本の解釈なのだということが、今、本当に良く分かる。但し、20年数年も経ってから気づくなんて、いかにも遅すぎる。でも、気づかないよりはマシだと、自分を慰めるなり。