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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

もし弥生時代が牛天神時代だったとしたら?

司馬遼太郎さんの『街道をゆく 本郷界隈』を読んでいると、ちょこちょことでてくるユーモラスな考察に、思わずクスリとしてしまう。

例えば、明治になって、かつて水戸藩の中屋敷だった場所に町屋ができ、町名をつける必要が出てきた時、園庭の水戸徳川家9代目藩主の歌碑にあった弥生から、向ヶ岡弥生町としたそうだ。するとそこから古い時代の土器が見つかって、町名にちなんで弥生式土器と名付けられた。それに関して次のように言っている。

"弥生というような稲作文化の象徴ともいうようなことばを持つ町名から、稲作初期の土器が出て弥生式土器と名付けられた。まことにめでたいといわねばならない。
弥生式土器は、広く時代区分として、"弥生時代"とつかわれ、"弥生文化"というふうにも用いられるようにもなった。同じ地名でも、西片や牛天神から土器が出て、"西片時代""牛天神文化"となると汎用しにくかったにちがいない。"(P・26~27)

確かにと思う反面、"牛天神文化"には、どこかユーモラスな響きが感じられる。だいたい、このように考えること自体がユニークだ。たまたま弥生という名がつく場所で発見されたからいいものの、もしかしたら、縄文時代の後が、牛天神時代になっていたのだろうかと、私までそのネーミングからさまざまなことを連想してしまう。

ちなみに弥生は、"草木がますます生ふる"ということだそうだ。そのように聞けば、後世の私たちにも、稲作が始まった時代が容易に想像できる。

一方、牛天神という名は、牛天神北野神社ホームページによると、鎌倉時代にまで遡るようだ。だが、司馬さんがおっしゃるように、"汎用はしにくかったにちがいない"に、大いに頷くところだ。

その他にも次のような記述に、加賀藩からの分封により支藩となった大聖寺藩が、擬人化されたような可笑しみを感じ、城が、泣きべそをかいている様子が頭に浮かんでしまう。

"分封されたものの大聖寺は冴えない藩であった。財政難でたえず本藩に泣きついたり、本藩に藩主をだすどころか、本藩から養子として藩主がやってきたりした。
大聖寺藩が歴史に残した功績としては九谷焼がある。"(『街道をゆく』・P・40)

と、ここまできて大聖寺藩が、どんなもんだいといきなり胸をそびやかせるようで面白い。かつてどころか現代でも尚、この地に多少なりとも所縁のある人は、急に風向きが変わって、エヘンと咳払いのひとつもしたくなるだろう。

ちょっとしたところまで、いちいち考察が行き届いていて、この『街道をゆく 本郷界隈』は、とても面白い。読みながら、司馬さんの思考の過程を辿るのは、本当に興味が尽きない。おまけに、膨大な知識の一端を、おすそ分けしてもらった気にもなってくる。まさに、一粒で二度美味しい。