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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

世界中に山積している問題を自分ごとと捉えて考える

先週来、EU離脱というイギリスの国民投票の結果に、あちこちから様々な意見が噴出している。事情に暗い私も、何とか理解したいと、熱心にニュースを読んだり、ラジオに耳を傾けたりしていた。

そのたび、なるほどそういうことかと、出てくる意見にその都度頷いていた。だが、まったく異なる意見に右往左往してしまい、ようやく、誰かの解説に乗っかっているだけでは、結局何にも分からずじまいじゃないかと気づいた。その時は解った気になっても、自分の頭で考えない限り、時期を過ぎればどこかへ消えてしまう。

"批評家に借りた眼鏡を捨てて、・・・思い切って自分の裸の眼を使うこと。"(『洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵』洲之内徹求龍堂・2008年・P・221)

これは、絵を見ることに関してだが、考えることも同じだ。またこれも絵を念頭においての事だが、次のようにも言っている。そしてこれは、今や、絵ばかりか、あらゆることに当てはまる。

"だれもかれも、猫も杓子もいっぱしの批評家気取りで、何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ。"(P・235)

現在は、これが書かれた昭和の時代に比べ格段にその風潮が進んできている。SNSのおかげで、誰もが気軽に、我が意見こそはと声高に発信できるようになった。だからこそ余計に、他者の意見は、ほんの参考程度に頭に留めて置かなくてはいけない。良い意見に思えても、その根拠になっている部分を、再度自分で調べ直し、かつ考え直す必要がある。

どのようなことにも、よその国の事だから自分に関係無いやなんて言っていられない。直接には見え難いが、多分この国の誰にも関係大ありだ。だからといって、批評家や評論家もどきに一家言持ちたいわけではない。自分で考えることを放棄したくないだけだ。

それにしても、どの国もどの地域でも、世界中で問題が山積している。考えなくてはならないことは山ほどある。そして結局、国って何だろうに行き着いてしまう。だが、降りることのできない船なら、自分もその一員として、いろいろなことを考えてゆかざるを得ない。それが、つまりは自分が投じる一票に表れる。