照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

本は自分の感性に合ったものだけを読む

私は本好きで、比較的よく読む方かなとも思っているが、まだ縁のない作家もどっさりいる。むしろ、好んで読んでいる作家の方が圧倒的に少ない。たとえ流行作家と呼ばれ、作品が次々ヒットを飛ばそうが、なぜか手に取る気がせず、結局そのまま読まずじまいということが多い。

 

だいぶ前より、小説がだんだんつまらなく感じられて、エッセイやノンフィクションなどが多くなった。それも、同じ本を繰り返し読む傾向が強かった。しかしこのところ、時間ができたせいか、また小説などにも目が向くようになって、ポツリポツリと読んでいる。

 

これまで縁がなかった作家の場合、エッセイから入ることもある。だが読み進めるにつれどうにもその世界観に馴染めず、ムリムリ読み終えてようやく、自分がこの作家の何が嫌だったかが見えてくる。

 

多分それは、本屋さんでパラパラめくった時、既に感じていたことで、縁でも何でもなく、自分の感性とは合わなかっただけだ。だからどれほど話題になろうが、また映画化されようが、関心が湧かないままに過ぎたと分かる。食わず嫌いということもあるが、やはり嫌いには何らかの理由があるのだ。気が進まない本に、無理に手を伸ばすこともない。

 

私は、嫌でも途中で放り出せずに、ひとたび手にした本は、最後まで読み終えるタイプだ。そのうえで、何がどう面白くなかったか考える。それはそれでいいのだが、読んでいる途中がかなり苦痛なので、思えば無駄な労力で、ずいぶんバカバカしい。

 

どうせ同じ時間をかけるなら、心がスカッとしたりしみじみしたり、勇気が湧いてきたり、考えが深まったりと、読み終えた後に自分の力になるような本がいい。

 

つい最近読んだ流行作家のエッセイにややげんなりした気分になり、ふとそんなことを考えた。最初はおやッと面白く感じたものの、次第に、父権へのノスタルジアじみた主張が鼻につきだした。

 

無頼派気取りも、若さアピールも嫌だけれど、敢えて年寄りを標榜するのも嫌いだ。ついでに言うと、団塊世代でもないのに、何故にその世代を名乗りたがるのかも解せなかった。

 

例えとしてはピント外れながら、自分を大きく見せようとお腹を膨らませ過ぎた挙句、弾けてしまった蛙が連想された。もし、小説家と呼ばれる人たちが、年々小さくなってきているとしたら、そのような選考委員によって選ばれた小説がつまらなくなってくるのもむべなるかなだ。

 

自分が読む本は、自分の感性に合ったものだけを選びたい。誰がどう褒めようと、自分がつまらないと思うものはつまらない。それは本に限ったことではなく、その感覚が、自分のすべての基準になるから。