照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

私のあまのじゃく魂を呼び起こしてくれる本ー『戸越銀座でつかまえて』

『戸越銀座でつかまえて』(星野博美著・朝日出版社・2014年)は面白い。とりわけ3章の「あまのじゃくの道」は、好きだ。「行列のできる国」、「スシ食いねえ」、「健康センターの小宇宙」、「クリスマスの呪縛」と、書かれた当時(2008、9年)の日本の世相を上手く切り取っている。

「スシ食いねえ」の、"・・・寿司はどうやら、人間の序列本能を刺激する食べ物のようだ。・・・」(P152)に、この章のすべてが凝縮している感じがする。

そして、"あまのじゃくの道"は、読むこちら側からすれば、あまのじゃくでもなんでもなく、むしろ真っ当にすら思える。

何でもかんでも、流行に乗り遅れまいと、行列に並ぶいじましさ。評価などさておき、そこに連なることで満足してしまうのは哀しい。結局そこに浮かびあがってくるのは、自分の物差しを持てない貧しさだ。

ずいぶん偉そうにと言われそうだが、やはりこの根底にあるのは精神の貧しさそのものだと思う。確かに、皆が美味しいと認めている物への興味は湧く。手頃な物から高級品まで、その味とは一体どんなものだか、試してみたいと思うのは当たり前だ。

でもそれ以上に、いかにも自分は・・・、みたいに振舞いたいだけではないのかと、私のあまのじゃく魂が、その根底を覗きたくなってくる。

それにだいたい、味の好みは、人それぞれだ。でも並んだ以上、その労力に見合った味と思い込みたいものだから、絶品だったと持ち上げたくなる。次のような記事もある。

"美人スイーツ女子を高級フレンチレストランに招待して、市販アイスのパピコを、「チョココーヒーのなめらか仕立て」として食べさせたところ大絶賛したそうだ。(7/3付けの"痛いニュース)

この実験のいやらしさはともかく、結果は、味など二の次で、大概の場合味覚をはじめ感覚は、自分の物差しではなく、雰囲気に左右されていると教えてくれる。

高級レストランにも鮨屋にも、人が価値を重んじることのあれこれに、何の関心も持てなくてもいいではないか。但し、興味が大で、好きなら行けばいい。でも、行ったからといって、わざわざ人に披露したり、ましてや薀蓄を傾ける必要もない。

高倉健さんの、"美味しければ美味しい、能書きは聞きたくないっていう気持ちがあって、・・・。時々、人間はそういう能書きに惑わされるんですね。"(『旅の途中で』・新潮文庫・H18年・P・195〜196)に同感だ。自分が満足できたらそれで充分。

そういう意味でも、この本で言うところの「あまのじゃくへの道」を歩んで、それをしっかり自分の道としたいところだ。自分なりの価値観を持てるようになることこそ大切だ。

とはいうものの、今でも、驚くほど行列ができる店とかは、実際どのくらいあるのだろう。もしくは逆に、著者が80年代の中国で見た行列のように、切符から食料品まであらゆる場合、選択の余地無く、手に入れるためには並ばざるを得ない時代が、日本にもくるのだろうか。

ヴェネズエラの現状など知るにつけ、無いとは言い切れない。それもこれも、すべては政治にかかっている。そう思うと、自分の一票はおろそかにできない。今日は選挙。熟慮して出かけよう。