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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

カラヴァッジョ好きはぜひこの一冊をー『カラヴァッジョへの旅』

絵画

私がカラヴァッジョを意識するようになったのは、2001年に東京都庭園美術館で開かれた展覧会からだ。それまで、若桑みどりさん好きの友人を通してカラヴァッジョという名を聞いてはいたが、どんな絵だろうと思うくらいで、積極的な関心はなかった。それが、絵を見た途端、俄然気になりだして、図書館でカラヴァッジョ関連の本を借りては読んだ。

カラヴァッジョについては、『カラヴァッジョ鑑』(岡田温司編・人文書院・2001年)というだいぶ分厚いが、非常に優れた本があって、宮下規久郎さんもお書きになっている。が、それ以外は、たまたま手にした本をパラパラ捲っていたら、アルテミジア・ジェンティレスキの絵に関する記述に、自分の感覚とは合わない方だろうと、結局それ以外は読まず終いであった。

それがなぜか今回、図書館の書架でふと目についたのが、宮下規久郎さんの『カラヴァッジョへの旅』であった。読み始めたところ、たちまち引き込まれてしまった。これまで、自分のバカな先入観で、この方の本を遠ざけていたことを、ひどく後悔した。もっと早く読んでいたら、昨年のローマ行きが、数倍実り多くなったものをと、自分の愚かさが嘆かわしい。

ところで、「作品は・・、現地で見てこそ・・・」は、私が常々考えていることでもある。つまり画家は、絵が置かれる場所に、どのように光線が差し込むかまで、計算し尽くして描いているのだ。だから高さや奥行きといった空間を無視してその絵だけを取り出しても、画家の意図とは異なった眺めになってしまうと思う。同じことは皆考えているのだろうが、文中でそのような記述に合うと、味方を得たようで嬉しい。

"この作品はあらゆる宗教美術と同じく、現地で(in situ)見てこそ、真価を発揮する作品といえるだろう。聖堂内の光と画面内のそれとの一致、斜めから見られるべく設定された新たな構成によって作品は観者のいる現実空間に接続し、奇跡が実際に観者の目前で起こっているような錯覚を与えるのである。(P・102)

昨年の4月、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂で見た、とても印象的な、〈聖パウロの回心〉がありありと甦る。

また、宮下さんは、

"カラヴァッジョの聖書解釈がここで深化し、キリスト教史上もっとも重要なパウロ回心の奇跡は、超自然的な光や神の顕現によったのではなく、すべて余人のうかがいかなわぬパウロの脳内で起こったという近代的な解釈が提示されたのである。"(P・101)

と書いておられるが、これが果たして、カラヴァッジョの"近代的な解釈"によるものなのかどうか、私にはどうもすんなりとは納得できないでいる。本当に心の深いところまで、宗教を意識して描いたのだろうか。

そのためにも、宗教美術は、その背景から学び直しが必要だと痛感する。そのうえで、同時代及びその前の時代には、同じテーマでどのように描かれたのかまで知らなければ、カラヴァッジョの革新性を、宗教との関わりで理解するのは難しいと、ため息がでてくる。でも、それを知る過程は面白そうと楽しみでもある。