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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

『どんぐりとやまねこ』で好きな場面

"おかしなはがきが、ある土曜日の夕方、一郎のうちにきました。

かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごぎげんよろしほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい。とびどぐもたないでください。
やまねこ 拝"
(宮沢賢治・『どんぐりとやまねこ』青空文庫より)

"字はまるでへた"だと思ったけれど一郎は嬉しくて、翌日手紙の主のやまねこを探しに出かけてゆく。あちらこちらずいぶん探した後で、奇妙な男の人に会う。一郎のことを知っているらしいその男は、一郎に届いたハガキについて尋ねる。

"「あのぶんしょうは、ずいぶん下手だべ。」と男は下を向いてかなしそうにいいました。一郎はきのどくになって、
「さあ、なかなか、ぶんしょうはうまいようでしたよ。」
と言いますと、男はよろこんで、息をはあはあして、耳のあたりまでまっ赤になり、きもののえりをひろげて、風をなかにいれながら、「あの字もなかなかうまいか。」と聞きました。"

そこで一郎が、五年生だってああは書けないとお世辞を言うのだが、

"「五年生っていうのは、尋常五年生だべ。」"と、一郎の返事を聞いた途端、男の声は力なくあわれになってしまう。慌てた一郎が、大学校の五年生だと言うと、大喜びして、あのハガキは実は自分が書いたと打ち明ける。そして、やまねこの馬車別当であると名乗る。

私は、『どんぐりとやまねこ』のこの場面が好きだ。人の心理をよく表していると、想像するたび可笑しくなる。やまねこの馬車別当であるこの男は、精一杯考えに考えてハガキを書いたに違いない。でも、自分の文章がどれほどのものか見当もつかないため、恐る恐る一郎に聞いてみたのだろう。

ところが、上手いと褒められたので俄然気を良くし、字にも自信を持ってしまう。それが、尋ね方に表れている。文章の時は、"ずいぶん下手だべ"と聞くのだが、字になると、"なかなかうまいか"と、期待ありありだ。だから、"「うまいですね。五年生だってあのくらいにはかけないでしょう。」"と聞くや、ガックリと肩を落とすような声になってしまう。でも、心優しい一郎はすかさず、"大学校の五年生"と言い添える。

宮沢賢治の時代から80年以上経つが、この会話、設定こそ大幅に変わるものの、今の時代に交わされていても、ちっとも不思議ではない。電車の中で、コーヒーショップで、もしくは職場で、耳に入ってくる言葉の数々を芯まで剥いてみれば・・・。純朴さこそ消えたが、人間の気持ちなんてそれほど変わらない。

でも現代なら、これはちょっとと首をかしげたくなる文章なうえに、字だって下手なんだから、本当のことを教えてあげることこそ親切だ、という声がどこからか上がりそうだ。しかし、言う必要の無いところで真実を告げるばかりが能じゃない。寅さんに倣えば、「それを言っちゃあお終しめいよ」かな。