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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

良い嫁とか良い姑になろうなんて幻想にとらわれないことが一番大事

ある時、同じ場に居た人の口から、それまで閉じこめていたお嫁さんへの気持ちが、まるでパンドラの箱を開けたかのように後から後から飛び出してきて、やや呆気にとられたことがある。それらを誘発してしまったのは一体何と思ったが、きっかけの有る無しによらず、既に蓋の重しが効かなくなっていたのだと分かる。

かつて、良いお嫁さんになるより、良い姑になる方が100倍も難しいと何かで読んだことがあったが、会社で嫁の立場の人の話を聞くたび、まさにそれを実感した。姑という存在は、もはや存在しているだけで、嫁側にとって多大なストレスになっていると、嫌というほど知らされた。

夫の実家が遠方の人の場合、日頃の付き合いが無いのだからいいだろうとは甘い考えのようで、凄じく攻撃的な言葉にタジタジとなった。そもそも結婚当初からの恨み辛みが重なっていたようで、外野からは何とも言えないが、聞くたびにキビシイと思った。

別の人は、形式的な離婚をしようかな、そうすれば今後顔を合わさずに済むと、真剣な面持ちで話していた。こちらも安易に判断はできないが、同じくキビシイと感じた。

いずれにせよ姑は、居るだけで煙ったがられる存在で、うっかり口でも開こうものなら、ありとあらゆるマイナーな解釈でその言葉を捉えられてしまうと、ランチタイムにしっかりと学んだ。言う主体が嫌われているのだから、何をどう言おうと、もはや言葉の問題ではない。

それ以来私は、嫁姑の関係ばかりか、誰かに良い人と思われたいというストレスフルな一切を放棄してしまった。悪意どころか、良いつもりで言った言葉だって相手の解釈次第なのだから、自分の基準を大きく逸脱してまで、相手を慮る必要はないと考えるに至った。相手にどう思われようが構わないと、覚悟を決めればいいだけだ。

子が成人したら、まして家庭を持ったなら、あえて意識的に精神的距離を置くべきだ。そして当然ながら、お互い経済的にも寄りかからないことが鉄則だ。愚痴が溢れ出した上記の人のように、あれもしてやった、これもしてやった、それなのに・・・、というくらいなら、もっと必要としているどこかへ寄付すればいい。

親子の関係は、たまたま縁があったというだけ。だからあまりその関係に固執せず、つまり過剰な思いを抱いたり、甘えたりはしないことだ。そして、子供の家族は、親子関係の延長線上にあるとの考えをきっぱり捨てることだ。

ところで、良い嫁とか良い姑になろうなんて、無駄な努力はしないことだ。それはまるで、シーシュポス(シジフォス)が岩を運び続けるようなものではないか。お互い、習慣から常識からことごとく違う別の星から来た者との認識で、相手に敬意を持って接すればいい。

それを物足らなく思うなら、果てなきバトルを選べばいい。どちらもご随意に。但し、それを逐一、誰かれに報告するには及ばず、かな。