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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

何事も「ちょうどいい」精神がちょうどいいー『村上ラヂオ2』

"僕はもうなかなかの歳だけど、自分のことを「おじさん」とは決して呼ばない。"で始まる「ちょうどいい」(『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』村上春樹・マガジンハウス・2011年・P・110)もいい。

"「私はもうおじさんだから」と口にした時点で、人は本物のおじさんになってしまうからだ。・・・いったん口に出された言葉にはそれくらいの力があります。ほんとに。(P・110)

いずれにせよ僕にとっては、「ちょうどいい」というのが人生のひとつのキーワードになっている。・・・だって女性にやたらもてたりしたら人生が何かと紛糾するだろうし、・・・歌が上手かったらカラオケで歌いすぎて喉にポリープができそうだし、・・・今あるままの自分でけっこうじゅうぶんじゃないですか。(P・112)

そういう具合に、「このへんでちょうどいいかな」とゆるく思えるようになると、自分がおじさん(おばさん)かどうかなんて、どうでもいいことになってくる。何歳だろうがそんなこと関係なく、ただの「ちょうどいい」人です。"(P・113)

今週の村上は、

"生まれてからまだカラオケで歌ったことがありません。いいですよね、別に。"

だ。音痴については人後に落ちない私はつい、(ええもちろんですとも)と、大きく頷きたくなる。

この方よりやや下の世代の作家が、自分をやたら爺と呼んで年齢をことさら強調するのとは対照的だ。そんなことを考えながら歩いていたら、不意に「尊大」という言葉が浮かんできた。それほどの歳でもないのに自分を爺と称する人には、ぴったりの言葉かもしれない。

まあ、時と場合にもよるけどねと思った途端、こういうのはどうですか、ああいうのもありますよとばかりに、頭の中で「尊大」の使用例が列をなした。例が変わるたび、それに合致する作家やら政治家やら諸々の顔が現れでる。

もういいよと、「尊大」さんには退場願って、私も、「ちょうどいい」を"人生のひとつのキーワード"にするべく、今度は、自分にとっての「ちょうどいい」あれこれを考えてみる。

"ただの「ちょうどいい」人"、まったくこれは魔法の言葉だ。これさえあれば、歳に縛られたりすることなく気楽に生きられる。但し、もう歳だからという言い訳もできないけれど、ね。

今日のTeruha
「ちょうどもいい」と間に「も」が入ると、違ったニュアンスになってしまいますので、ご注意を!

というのは、ダメですかね?