ナンセンスこそが偉そうなマジメの暴走を防ぐ
駄洒落、ナンセンス(nonsense)の類が大好きな私は、ほとんどつまらない親父ギャクにも笑ってしまう。可笑しくもないけど、一応笑っておくかといったお付き合いでそうする訳ではなく、聞いた途端プッと吹いちゃうのだ。つまり私の場合、笑いの沸点が限りなく低い。
村上春樹雑文集(村上春樹著・新潮社・2011年)に、"超短編小説集のために書いた作品ですが、あまりにも意味がない(ように思えた)ので、"(P・374)と載せずじまいだった作品が入っている。
「柄谷行人」(P・377〜379)が面白い。隠居と熊さんの会話だが、隠居の反応が好きだ。
隠居「となりの空き地にある塀が囲いに変わったことは知っているかい」
熊「それは何かこう、平均的じゃない話題であるような気がしますね」
隠居「・・・・・・」
熊「・・・・・・・」
隠居「もう一回それ言ってみてくれないかな?イントネーションに作為のようなものが感じられたんだが」
熊「それは何囲う塀均的じゃない話題であるような気がしますね」
隠居「やっぱり洒落だったんだ」
次に、
隠居から馬が柄谷行人の著書を読むと聞いた熊さん
熊「参ったな。それは身体にこう、尋常じゃない行為ですよ」
隠居「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
熊「・・・・・・・」
隠居「もう一回言ってみろ」
熊「柄谷行人常じゃない行為ですよ」
隠居「なんか、疲れるなあ」
熊「どうもすみません。人格の一部なんです。これが」
その次の洒落は、ほとんど判別できずに、隠居の沈黙が相当長くなってしまう。
すると熊さんが、「・・・ご隠居それ素敵なシャツですね。ギャップですか?」と、ごまかし気味に話を逸らすところで終わり。
「やっぱり洒落だったんだ」とか、「なんか、疲れるなあ」って、熊さんに振り回されるご隠居が可笑しい。何しろ、柄谷行人の本を読む馬がでてくるんだから、熊さんだって、そんじょそこらの熊さんではない。言葉をこねくり回して、ご隠居を煙に巻く。
ナンセンスがあるから、マジメが偉そうに暴走するのを防ぐことができる。何の足しにもならず、誰の役にも立たない語呂合わせや駄洒落を楽しむ間に、頭でっかち気味の正論に少しブレーキがかかる。
親父ギャクって、昨今はとりわけゾッとするほど冷たい視線に晒されることが多いけれど、私は大好きだ。いつだってクスリと笑っていたい。これからは、マジメも休み休み言えが、正しい使い方になるかもね。
*この本はどの章も興味深いが、特に「音楽について」、そのなかでも[ビル・クロウとの会話][ニューヨークの秋]の二つがベーシスト・ビル・クロウの話、それと[ビリー・ホリディの話]がちょっといい話的でおすすめだ。
"大きな店構えの演奏"のポール・チェンバーズ大好きなベーシストだから、ついCD聴いてしまったよ。もちろんビル・クロウもYouTubeでね。