照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

この時代に新聞は読むほどの価値があるのだろうか?

先週月曜日のラジオ番組で、ジャーナリストの青木理さんが、東京新聞を除いた各社が、一面からオリンピック報道一色ということに疑問を呈していた。ドイツ在住のジャーナリスト熊谷徹さんも同様のことをツイッターに投稿しておられた。

趣旨は違うが、それが頭にあったものだから、「新聞を読まないことについて」(『村上朝日堂』村上春樹安西水丸新潮文庫・S62年・P・218)という30年数年前のエッセイに、ふむふむと頷いた。

"それよりはドイツの若い連中がみんな反核バッジを胸につけていたり、パーシングII反対キャンペーン・シールを車にペタペタと貼っているのを見ている方が、世界の空気の流れみたいなものを肌で感じることができる。
本当の情報とはそういうものだと僕は思う。決して新聞が役に立たないというわけではなく、世の中には右から左に抜けていくだけの身につかない情報が余りにもあふれすぎてるんじゃないかと思うだけである。"

"右から左に抜けていくだけの身につかない情報が余りにもあふれすぎて"は、新聞だけに留まらず今やネット上でますます加速している。ちなみに新聞は、右から左に抜ける速さに追いついていけないだけが理由じゃないと思うが、購読者が減り続けているのが現状だ。

とはいうものの、エッセイが書かれた30年前、私はまだまだ新聞大好きで、スポーツ欄以外は隅から隅まで読んでいた。それより更に10年遡った頃、尾崎秀実は行間を読んだと聞いて感心したが、私などには字面だけしか追えなかった。そればかりか、新聞の報道を疑うことすらなく有効な情報源としていた。

今は生ゴミを包むために時々買うのだが、情報の出所どころか考える手立てにもならず、全く読む気がしない。それでも仕事をしていた時は、取引先の情報など切り抜いたりもしていたが、もはやそれらへの関心も薄れた。

かつて司馬遼太郎さんが新聞記者だった頃、その世代が最後の新聞人と呼ばれたらしいが、今ようやくその意味が解る。それについては、司馬さんと同じ時期に大阪で別の新聞社に勤めていて、お知り合いでもあった鴨居羊子さんの著書で読んだ。(と、記憶している)

新聞ばかりか週刊誌だって、電車の中吊りにさえ興味が湧かない。自分のことを棚に上げて申し訳ないが、書く人間が実際小粒になっているのだろう。だから記事にも、人に手に取らせるほどの力がないのだと思う。もう少し、骨のある書き手はいないものかとため息が出るが、育ててこなかったのは、読者の側でもあることに思い至る。

政治家を見れば国民のレベルが分かるとはよく言われることだが、それは、新聞あるいは、週刊誌を見ればに、そっくりそのまま置きかわるのではないだろうか?

何だか、ちょっと高みから偉そうなことを言ってしまった。まあ私程度の者の言うことですから、お目こぼしを。それに、スコッと蹴っ飛ばされたらひっくり返るほどの高さですから、どうぞよしなに。

ところで『村上朝日堂』には、文章それぞれに安西水丸さんの挿絵があるのだが、それがとても的を得ていて凄く可笑しい。