照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

"言葉の代わりに、見て気がついていくことでその虫の気持ちがわかる気がする"

"いきものとおしゃべりするには、観察するのがいちばんだ。
子どものころ、ぼくは、虫と話がしたかった。
おまえどこに行くの。何を探しているの。
虫は答えないけれど、いっしょうけんめい歩いていって、その先の葉っぱを食べはじめた。
そう、おまえ、これが食べたかったの。
言葉の代わりに、見て気がついていくことで、
その虫の気持ちがわかる気がした。
するとかわいくなる。うれしくなる。
それが、ぼくの、いきものを見つめる原点だ。

どうやって生きているのかを知りたいのだ。
おまえ、こんなことしているの。
そうなの、こういうふうに生きているの。
その物語がわかれば、すごく親しくなれる。
みな、ようよう今の環境に適応して生きている。
生きることへの深い共感は、そうやって生まれてくる。

世界を、こんなふうにみてごらん。
この本を、これからの少年少女と大人に贈る。
人間や動物を見るときのぼくなりのヒントをまとめたものだ。
生きているとはどういうことか。
豊かな見方をするといいと思う。"

本屋さんで手にとった本の1ページ目、いきものへの慈しみあふれる言葉「はじめに」に惹かれて、即座に購入した。(『世界をこんなふうに見てごらん』(日高敏隆著・集英社文庫)

虫はかなり苦手な私であったが、長男はなぜか虫に興味を持った。私も消極的ながら、カブトムシやアゲハの幼虫の世話を手伝っているうちに、幼虫にもだいぶ馴染んで、可愛いとさえ思えるようになった。とはいうものの、カマキリを捕まえてきて飼うと言われた時には、内心閉口した。だが結局、生き餌の確保が難しく、上手く話して公園まで放しに行かせた。

あの頃からだいぶ経つが、先日墓参りの折、この本の「はじめに」が頭にあったせいか、「カマキリがいる」との声に、私もわざわざ見に行った。ちょうど父の四十九日の日で、読経が済んだ後に皆で墓まで行ったのだが、一行に6歳の男の子がいた。その子への声がけであったが、良い機会と、私も一緒にしゃがんでカマキリを見ていた。

男の子が首の辺りを掴むと、カマキリは、何するんだとばかりに、大きな目でキロっと後ろを振り向く。その子が慌ててコンクリートの上に放すと、ゆうゆうと歩いて行った。

カマキリにしてみれば、ちょっと用事で急いでいるのに、子どものオモチャにされている場合じゃないんだよとオカンムリだったかなと可笑しくなる。あのキロっという睨み方は、いかにも迷惑気であった。

それにしても、子どもたちが幼い頃に、もっと積極的に虫を観察していたなら、本からだけの知識を超えて、どれほど世界が広がっただろうと、ちょっぴり苦い思いが過ぎる。

はらぺこあおむしのように、葉っぱばかりを食べる虫だけではないけれど、生き餌が必要ないきものもすべてひっくるめて、"生きることへの深い共感"を育む良い機会であったのにと、今にして思う。