照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

『役に立たない日々』に力が湧いてくる

『役にたたない日々』(佐野洋子朝日文庫)が面白い。私は、この方のズバズバした、露悪的とも思える物言いが好きだ。人から、少しでも上品に、知的に見られたいという意識など、僅かも感じられないところに潔さがある。

"パンがなかったので、コーヒー屋に朝めしを食いに行く。歩いて二分でついた。"(P・8)そこで、全員独り者らしき6人の"朝めしバアさん達"に遭遇、"全部女だった。全部ババアだった。"

そして、それぞれ一人で座っている女性たちをつぶさに観察する。

"昔はこんなバアさん居なかった。きっと全員独り者のオーラが立ちのぼっているだろう。明日同じ時間に来たら同じ顔ぶれかもしれない。そして、誰も人と話をしない。意味もなく力がわいて来た。"

と、"「同志バアさん」"に勇気づけられる。

とはいうものの、大晦日にビデオ屋に行こうとして、

"いいバアさんが五本も六本も大晦日にビデオを借りたら、かわいそうなおバアさん、何か荒涼とした風景を他人はみるかもしれぬ。人にはあれこれ思われたくないわさ。
私は見栄のために、ビデオ屋に行くのを止めた。"(P・56)
と、多分誰も気に留めようともしない辺りに、自意識過剰が顔を出す。

実際、見知らぬ他人が、大晦日にどう過ごすかなんて、いちいち気にする人などいない。ましてバアさんなら尚更だ。これが書かれたのは2003年であるが、今はその傾向がさらに進んでいるだろう。皆、自分のことで精一杯なのだ。

でも、どれだけ他者が自分に無関心であろうとも、バアさんだって、"華やぐ命"にフッと思いが至ることもある。

"岡本かのこは晩年「・・・・・いよいよ華やぐ命なりけり」とうたった。"(P・222)と、かのこからは対極のごとき自分を振り返る。

"ある日、私は華やぐ命というものに全く関与しないでウン十年生きて来たことに気がついた。
皆さん、韓流ブームは何であったか、わかったでしょう。
架空の華やぎにねじくれて触発されたのである。だから、私もはまった。"(P・226)

と、韓流ブームの何たるかを喝破し、ひたすら韓流スターの誰かれに"華やぐ命をあずけ"、乳ガン手術後の一年をベッドの上で過ごした日々を省みる。そして、"ブームが終わった時、私のにせものの華やぐ心はほこりまみれで死んでいた。"(P・227)と、自覚する。

表面など取り繕わず、ひたすら物事の芯を見据えて、時々呟くのみ。だがそれは、誰のためにもならず、何の役にも立たないと思っているので、説教臭いところなどこれぽっちもない。世に名が売れたとなると、大概の人は、自分を偉い者のように振る舞いがちだが、そんなところはさらさらないので、読んでいて気持ちが良い。

また、毒舌で売る人のように、自分を高みに置くこともなく、いつだって自分は晒したままだ。周りから、どんどん友だちがいなくなってゆくと嘆くが、実際はへっちゃらという感じありありだ。ここには、自分の人生、自分で引き受けましょうという覚悟がある。私もこんなバアさんになろう、と力が湧いてくる。