照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

旅の魅力は心躍る風景に出会えること

"そこがどのような場所であれ、はじめての土地を通過するときほど心躍るものはない。"(『周平独言』藤沢周平・中公文庫・P・295)

"何かを見に行く旅、つまり観光旅行は、見なければ損だという気持ちになる。眼を皿のようにして、あちこちと駈けまわる。・・・そのわりには、後に残る感銘が薄い。
なぜそうかといえば、観光地では、われわれは既製品の世界を見せられるからであろう。・・・せっかくいい景色のところに行っても、自分の眼で発見するものが少ないから、心に残る感銘が薄いのだ、と思う。"(P・296~297)

ある時、藤沢さんは仕事先で行った北海道で、仲間の記者と別れ、札幌から、苫小牧、東室蘭、函館へと一人汽車で向かう。曇りから雨に変わった天候の中、"長い単調な汽車旅行"に少しも飽きず、眼に映る光景をただ見ている。そして突然、"旅をしている、とそのとき私は思った。"

"日常の暮らしから切り離されて、気ままに好きな風景の中を移動する。それが旅だろうと思う。しかも出来れば、一人の方がいい。そういう旅を、私はしたいのだが、これがなかなかできないのである。"(P・299)

だが、旅とは、何も遠くへ行くことだけとは限らない。ごく近場だろうと、心躍る風景に出会えるかどうかなのだ。

"パリだ、ミラノだと、簡単に海外に旅することがはやるいま、私が子牛田から新庄までの短い汽車旅行を喜んでいるのは滑稽だろうか。
そんなことはなかろうと私は思う。"(P・300)

そして、若い頃乗り慣れた陸羽西線ではなく、"そこはどんな土地だろうと、私は長い間考えていた"陸羽東線に"に初めて乗った喜びを、

"新緑に包まれたそこは、すばらしい土地だった。私はその土地を芭蕉が旅し、天保の庄内農民が東へ超えたことを思い出したが、それもわずかの間で、窓の外の美しい風景に見とれつづけて飽きなかったのである。"(P・300)と綴る。

"そこがどのような場所であれ、はじめての土地を通過するときほど心躍るものはない"、これはまさに、私が考える旅だ。私も、ピンポイントで観光地を駆け巡るより、効率は悪くても、自分の足で歩き、自分の眼で見ることを大事にしてきた。

せっかく行ったのにと、惜しまれるような名所旧跡の見残しもいっぱいあるだろうけど、自分が歩いた街は、足がちゃんと記憶している。その場所を想うたび、細かなことまでたちどころに蘇ってくる。そして、その心躍る思いが強いほど、再び自分をその地に向かわせる。

ところでこの「陸羽東線」の章に、同じことを考える人がいるんだと嬉しくなった。もっとも、私が長いことこの本を知らなかっただけで、お書きになられたのはずいぶん前だ。お亡くなりになられてからでも、ほぼ20年が経つ。エッセイは初めて読んだが、小説の底に流れる藤沢周平の魅力の源泉に触れたような気がする。