照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

言葉で自分をアピールするよりは〜自分がイメージする自分になる方が効果的

自分をわかって欲しくて、自分はこういう人間なんだアピールをどれほどしようと、結局は伝わらない。だって自分がイメージする私は、あくまでもこう見えたらいいなの自分だから。

翻って他者は、自分のバイアスを通したあなたしか見ていない。だから、像が重なるわけがない。突き詰めるなら、人の目に移っているのは、他者を介した自分自身なのだ。

ある時、写真に写った自分と自分が描く像との乖離に愕然として、これは顔形だけのことではなく、自分の全般に当てはまると思えた。

しかし、これは私だけのこと?、私が自惚れ屋さんだからそう思うの?、と自問してみた。友人、知人に同僚、過去に彼等と交わした会話の断片を可能な限り思い起こしてみた。その結果、大多数の人が、自己に対して同様な見方をしていると気づいた。

だからみんな、これでもかとばかりに自分のことだけを話すのだ。話の内容なんて、ただただ自分という人間の開示に勤しむ手段だから、実際どうでもいい。といっても、人より劣っていると見られるようなことはNGだ。

いかに自分が知的でカッコ良く、センスもあって、かつ裕福か、更に加えるなら、慈悲深く優しさの権化であるかを、どうしたら他者に分かってもらえるかに知恵を絞る。

でも、誰も人の話なんて聞いていないのだから、そんなことしたって無意味だ。話すことで、伝えられたと思っている自分だけが満足している。むしろ、言葉が介在すればするほど空疎になる。

結局、自分は自分が納得するような自分になるしかない。他者からの高い評価を待ったところで、それは、永遠に来ない。だって人は、自分にしか興味がないのだから。稀に、誰かに感心しても、人は黙って真似するだけで、賞賛の言葉など吐かない。

もし身近な誰かが、自分と似たような物を身につけたり、同じような考えを口にし始めたりしたら、それはあなたに心惹かれた証拠だ。言葉にしなくても、あなたの持つ雰囲気は雄弁だ。そのためには、こう在りたい自分をイメージして、ひたすらそれに近づけるようにすればいい。

かつて、分かって欲しいアピールをした者として、遅ればせながらではあるが、ようやくそれに気づいた。所詮、人と自分に大差はないが、少なくとも頭一つは抜け出せる。更に光の範囲が広がるならば、それがオーラと呼ばれる何かなのかもしれない。ちょっとやってみませんか。それには、先ず自己イメージの構築からどうぞ。