照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

生きるって、明日でも明後日でもなく、"ようするに今なのだ"

大晦日は、風もなく暖かで、まさに穏やかなと形容するにぴったりであった。水を使っての大掃除に余念がないお宅の側を通り過ぎながら、ご精が出ますねと心の中でつぶやく。だが、特別な掃除もしないで、まったくお気楽サンそのままに散歩している自分に可笑しくなる。

ついでに言うと、歩きながら見かけたセキレイヒヨドリに、鳥たちには大晦日も新年も関係ないんだろうなと思ったのだが、それはとりも直さず自分にも当てはまることに思い至り、なんだ私は鳥並みかと更に可笑しくなる。だが鳥たちに言わせれば、オイラたちはダテに飛び回っているわけじゃないやい、生活がかかっているんだよ、となるかもしれない。

鳥に限らず動物たちすべてにとって、詩『春の問題』風に言うなら、毎日が"ようするに今なのだ"ろう。しかし、今がすべてなのは、人も同じはずだ。だがなぜか人は、昨日に続く今があって、更に、今に続く明日があるものと信じ込んでいる。でも、そればかりは単なる幻想であって、誰にも明日が確約されてはいないのだ。

そんなふうに考えてみると、一日一日がひどく大切に思えてくる。人との接点も、もう少し大事にしてみようかとなる。例えば、友人、知人または身内から声をかけられた時、こんな機会もうないかもしれないと考えれば、億劫がる気持ちなどピシャリと封じ込められる。

いざ会う段となって、奇跡の一日と思うか、メンドくさいなと思うかでは、過ごす時間の密度が変わってくる。私にも幾つかの、あの時会っておけば良かったがある。相手の気持ちなど忖度することなく、忙しさにかこつけて断った苦い思いは、結局いつまでも残る。

そんな一つは、心情的には、ちょうど小津監督の『東京物語』のようなシチュエーションであった。その時の私には、いつでも会えるんだから何も今日でなくても、という親に対する甘えがあったのだと思う。実際、母にはその後何度か会ったが、無論その時の代わりにはならない。結局次の機会はなく、入院に付き添ったその日に、母は旅立ってしまった。

今年の9月、心筋梗塞で父もまた突然旅立ってしまったが、その数日前、ふと、土曜日にでも訪ねてみようかという考えが浮かんだ。にも関わらず、翌日に旅行を控えていたこともあって結局止めてしまった。その1月半ばかり前に、父と二人で撮った写真があるのだが、それを見るたび、やはりあの時も、(亡くなる前日)行っていれば、という思いは残る。

これからは、声をかけられた時だけでなく、自分が会いたいと感じたら、迷うことなく出かけようと思う。それと、自分がしたいと思うことも、先延ばしせずにやっておくつもりだ。生きるって、明日でも明後日でもなく、"ようするに今なのだ"から。

のんきな散歩話から、何やら新年の誓いめいてきてしまったが、要は自分も、野の鳥たちの如く日々を今だけと思って生きましょうと思った次第なり。

昨日の大晦日で一区切り、そして今日は新たな一年の始まり。皆様にとっての"今"が、どうぞ実り多き日々となりますように!