照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

しぶんぎ座流星群は見られなかったけれど時には星に思いを馳せるなり

三ヶ日は穏やかな晴天であったが、ラジオを聞いていたら、東京に限って言うと、平成になってからほぼ毎年晴天とのことだ。28年間でお天気に恵まれなかったのは、5年くらいだという。今回(1月3日夜11時すぎから4時間ほど)は、しぶんぎ座流星群を見るには絶好の年という話に絡めて紹介されていた。

目覚めて私が空を見上げた時は、あいにく雲が広がっていて星の一つも見当たらなかった。ちなみに1月2日の夜は、月に金星が大接近していて、とても綺麗だったようだ。こちらも、知らなかったとはいえちょっと残念。以前仕事帰りに、同様の光景を偶然目にし、しばらく眺めていた事が思いだされる。

鳥は、星を目印に渡りをすると前に聞いたことがあるが、月の満ち欠けや星の位置は、鳥たちばかりか、太古の人々にとっても重要であった。だから天文学として発展したわけだが。しかし、そのもっともっと前、月とか星と名付けられる前、人々は闇夜を照らすものが少しづつ姿を変えてゆくのを眺めながら、これはハテ何だろう?と不思議に思っていたのだろうか。

月に金星が寄り添った夜や、現在スーパームーンと呼ばれるほど大きな月に出会った夜は、今の私たち同様、単に美しい!と感嘆して見上げていたのだろうか。それとも、常にないことを、何か良くないことの表れと考え用心していたのだろうか。文字を持たない時代に生きた人々の思いを知ることはできないが、想像してみるのは楽しい。

私が子どもの頃は、星を見るなんて特別のことでも何でもなかった。雲に覆われていない限り、夜、上を見れば、そこらじゅう星だらけであった。今の住まいでも、数こそグンと少ないが、辺りが寝静まっている時間帯にベランダに出れば、星は輝いている。

数年前のある朝、真っ暗な道を歩いていて、ふと見上げた空に満天の星。都内でもこんなにたくさんの星がと、驚いたことがある。ただ、今では日頃からよほど意識していないと、星の存在を忘れてしまいがちだ。
もっとも、星どころか何によらず忘れがちだから仕方ないか。ロマンチックからは遠ざかる一方だと、シュンとなるなり。