照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

物事を本当に理解するってどういうことか?考えさせられるエピソード

米原万理ベストエッセイⅠ』(角川文庫・2016年)を読みながら、改めて、この方の鋭い洞察力やユーモアのセンスに、頷いたり笑ったりさせられた。中にはかつて読んだ話もあるが、ベストというだけあって、それまでのエッセイの中から選りすぐられたものなのであろう。だが、何度目だろうと、面白いものは面白い。

「遠いほど近くなる」の〈モスクワの日本人〉(P・49~57)は、殊に心に残っている。

オペラ通を自認するツアー客の中で一人だけ、自分はどうせ寝てるから、後ろの席でいいと申し出たN氏の話だ。

 

"「ああ、ああ、あのおなごの声のちれーなこと、ちれーなこと。オペラってええもんだなぁ」
N氏だった。この素朴でまっすぐな感動は、オペラ通を自負する、ちょっぴりスノビッシュなインテリ集団が、
「いやー、もしかしたら自分たちの感動の仕方は通り一遍だったかも知れないな」と恥じ入ってしまうような、しかもその感動の共鳴効果の波にいやおうなしに捕らわれてしまうような力強いものだった。"

"オペラに全く不案内だったNさんが、誰よりもオペラに心打たれ、魂を揺さぶられ、常日頃オペラに馴染んでいる人たちをも巻き込み感染させてしまうような熱い想いに捕らわれたということが、不思議な発見で、いつまでも忘れられないエピソードなのである。しかし、その後、こういう現象が、必ずしも珍しいことではなく、むしろ合法則的なものであるのだなあと、いくたびか確認することになった。"

 

そして、〈近いほど遠くなる、遠いほど近くなる〉(P・64〜65)のエピソードが、これまた実に深く考えさせられる。
ある研修で、最初は授業の足を引っ張る劣等生と見られていた参加者たちだが、しばらくすると、彼らがいることで授業により深みと奥行きが出てきていると、優等生たちも講師も気づき出す。

 

"彼らの発する質問は、根源的であり、哲学的で有りさえする。優等生たちは、自分たちの捉え方がいかに上面だけを撫でたものであるか思い知らされて、恥じ入り、講師は講師で、今まで自分が疑問にも思わなかった問題を突きつけられて、学問的にも新鮮な刺激を受けるのだ。
お受験熱にかられた母親や、効率一辺倒の学校が、習熟度レベルで学童をクラス分けして欲しいという願望にとらわれることがしばしばある。それが子どもたちにとって、またとない素晴らしい機会の喪失であるか、気づこうとしない。"

 

何でも簡単に分かってしまうのは、一見、理解力があって頭が良さそうだが、単に知識としてしか残っていかないのかもしれない。先にあげた話にしろ、インテリ集団は、知識を頼りに頭で聞いていたのであって、N氏のように、魂に直接響くという経験をしたことがなかったのだろう。だから、それ以後、皆こぞってN氏の意見を聞きたがったに違いない。

 

それにしても、もし、米原さんが今尚ご存命だったら、本を通してどのような話を伺えたのだろうかと、もはやそれが叶わぬことがひどく残念に思われる。