照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

方言っていいなと思うこの頃

先日、『秘密の花園』の朗読をラジオで聞き、ヨークシャー訛りが新鮮に感じられたと書いたが、そのすぐ後にタイミング良く、「方言まで訳すか、訛りまで訳すか」(『米原万里ベストエッセイⅠ』・角川文庫・2016年・P・24~34)を読み、改めて方言の持つ力に思い至った。

 

"方言とか、訛りというものは、それだけで雄弁にその話し手を彷彿とさせる力を持っている。例えば、前述のスピーチとて、標準語になってしまうと、どうしても通り一遍の社交辞令の域を出ないのに、方言にすると、素朴なおじさんの心底からの驚嘆の気持ちが伝わってくる。"

 

と、著者が同時通訳をした時の体験談に加え、翻訳者が方言を取り入れた場合とそうでない場合、訳文がどのように異なった印象を与えるか、大学で講義した折、実際学生たちから得られた感想など交えて述べておられる。

 

昨日引用させて頂いた、

"「嗚呼、ああ、あのおなごの声のちれーなこと、ちれーなこと、オペラってええもんだなぁ」"(P・51)

も、もしN氏が、標準語で感極まった声をあげたとしたら、同行者への"共鳴効果"も多少割引されてしまったかもしれない。ここでもまさに、"素朴なおじさんの心底からの驚嘆の気持ち"が、人々の心にまっすぐに入っていったのだと思う。

 

ところで、今でこそ方言っていいなと思うが、若い頃は、自分が育った地域のやや荒々しい言葉が嫌いであった。イントネーションも含め、もっと柔らかな物言いをする地方だったらいいのにと思っていた。

 

そのせいか、関西出身の友人たちがお盆やお正月に帰省する都度、私も一緒に付いていったのだが、滞在中にすっかりその口調が移ってしまったことがある。但し、ちゃんと話せていると思っていたのは自分だけで、側から見ればかなり怪しげで変だったようだ。

 

ところで、数十年前テレビで、落語の『らくだ』を渥美清主演でドラマ化したものを見たことがあるが、その言葉遣いが、私の故郷の言葉とも同じでとても懐かしかった。そして、地続きだから似ているのも当たり前かと思いつつ、かつては東京の下町にも、前の時代から続くこのような方言があったことを改めて考えた。(『らくだ』の時代設定は江戸)

 

しかし、だいぶ前から私の実家周辺でも、方言そのままの語り口の人は、かなりの高齢者以外見かけなくなった。これは多分、全国的な流れなのだと思う。でも、旅先で時折方言に触れると、やはりいいなと思うのは、無い物ねだりのノスタルジアなのだろうか。