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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

風景でも建造物でも、知識で捉えては感動が薄れる

『宮大工と歩く奈良の古寺』(小川光夫著・文春新書・2010年)は、奈良を訪れるたび、手引きのように携えてゆく一冊だ。古い時代の建築について噛み砕いて教えてくれているのだが、木の話などは、人の生き方に通じるものがある。

宮大工の小川光夫さんは、高校の修学旅行で法隆寺を訪れ、五重塔を見たのをきっかけに、千三百年前の工人の仕事に打たれ、宮大工を志したそうだ。

いつものように嫌々足を踏み入れ、ぼんやり五重塔を見ていた小川さんが、案内の人の言葉に衝撃を受けたのとは逆に、同級生たちは修学旅行のための事前準備をし、歴史、時代背景、建物の見どころ等、さまざまな知識を持っていたが、"知識を持っていたがゆえに、大きな感動を得ることもなく、知識の確認をして通り過ぎていきました。"とのことだ。

「はじめに」に出てくるこの言葉に、読むたび共感を覚える。風景であれ建造物であれ、その前に立った時自分がどう感じるか、その感覚を大事にしたいと思ってはいるのだが、ややもすると、対象を頭で捉え、追体験することに終始しがちとなったりもする。つまり、知識が、かえって目を曇らせてしまうことは多々ある。

小川さんは、西岡常一師に弟子入りして後も、古建築の本を読むことも寺巡りも必要ないと言われたという。
"知識でものを見たら、見えるものも見えなくなる。感じ取るべきものを他人から借りた言葉で表現してしまう。心を素にして、自分が感じ取れるようになって初めて建物を見、知りたいことが出来たら先人に学べばいい。多分そう言いたかったのではないでしょうか。そういうことを言葉にする師ではなかったので、自分が弟子を取るようになって気づいたのです。"(P・7)

この箇所に、もっと自分の感覚に従えばいいのだと、勇気が湧いてくる。感じ方に、良いも悪いもない。なのに、人と大きく違うとか、笑われそうだとか、自信が持てないからといって、誰か権威ある人の気の利いた言葉に頼るのでは、やはり自分の感動とはどこか違ってきてしまう。

例え、感じたことが人とまったく同じでも、自分の言葉で表現すればいい。言葉が見つからなければ、出てくるまで黙っていればいいだけだ。それが、自分で考えることの手始めともなる。

遅ればせながら気づいたのだが、この本は、何度か寺巡りをした後に読んだ方がいいかもしれない。帯にも、"古寺を観るのに様式論など無用です。素直な心で向き合えば、千三百年前の人の声があなたにも聴こえてきます。"とある。

遥かな時代の工人たちの声が聞こえたら、改めてこの本を開き、その仕事ぶりに感嘆、再び奈良を訪ねるというのもいい。ちょっとこのところ、私の頭の中には奈良が渦巻いている。