照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

"家庭料理はごちそうでなくていい"に共感する


"家庭料理はごちそうでなくていい。ご飯とみそ汁で十分。"(The Huffington Post・3/26付)という見出しに目を引かれた。http://m.huffpost.com/jp/entry/15561352

提唱されているのは、料理研究家の土井善晴さんだ。

"献立の基本は一汁三菜。
私たちはあまりにも長いあいだ、この思い込みにとらわれてきたのではないだろうか?"

確かに、自分がかつて作っていた食事は、自分が子どもの頃の食卓と比べれば、日々がハレの日のようであった。

極端に偏食だった私は、料理にはさほど関心がなかった。でも、それを直したいという思いもあって、一人暮らしするようになってからは料理に取り組んだ。手本としたのはもっぱら本であった。

そこには一汁一菜という考えはなく、献立の例には、主菜の他に、副菜が数種類あったと記憶している。そのため、いつしかそれを基本あるいは普通と思い込んでしまったのかもしれない。おまけに、比較的簡単な野菜類のおかず(例えば野菜の炊き合わせとか、キンピラゴボウ等)は、主菜の座には物足りないように思われた。

だが、"家庭料理はごちそうでなくていい"に、今となってはまったく手遅れながら、本当にそうだなと共感する。肉も魚も、メインに野菜を使ったとしても手の込んだおかずは、やはりハレの日のごちそうに相応しい。ケ(日常)の日の食卓は、もっとアッサリで良かったのに、どうしてあれほど張り切ってしまったのかとさえ思う。

(今日のごはんなあ〜に?)と、楽しみに待っている家族の顏を浮かべると、ついつい喜ばせたい意識が働いてしまったのだろう。でも、もっとハレとケの区別をつけてもよかったのだ。

安易に、手間もかかる見栄えの良いごちそうに頼らず、知恵を絞った食卓にすれば、食事の支度という家事の大きな部分を省略できて、疲れ切ることもなかったのではないか。でもそれ以前に、いろいろな面で、家族の意識改革が必要だなとも思う。私の場合過去に、粟や稗入りご飯に野菜中心のおかずは、家族の不平を招いて、結局は止めてしまったという苦い思い出もある。

現在の私の食事は、簡単に準備できて、自分が美味しいと思えるが基本だ。ちなみに私の朝食はスープご飯だが、毎日同じ形態でも、使用する野菜でアクセントがつくので、全然気にならない。実際、誇張ではなく、食べるたびああ美味しいと思う。

毎日、今晩のおかず何にしようとお悩みの方は、この際、家族を巻き込んで、これまでのおかずへの意識を変えてしまってはどうだろうか。きっと、暮らし方すべてへの見直しにもつながるに違いない。食事に手間をかけるばかりが、家族への愛情ではない。