照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

ミケランジェロの《最後の審判》に手が加えられていたなんてビックリ!

この5月に、バルセロナのカテドラルとエヴォラの博物館で「受胎告知」を見た時、驚きを顕わにする(ように見えた)マリアの表情に、どちらもずいぶん似た雰囲気だなと思った。これまでも各地の教会や美術館を訪れるたび、「受胎告知」でマリアがどのように描かれているかに着目してきて、ついツッコミを入れたくなるような絵もあったが、その中でもこの二点はかなりユニークに感じられる。

 

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 この絵は、以前も同様のことを書いたが繰り返すと、「アレッ、マア!なぜに私が?」というセリフを入れたくなるような顔つきをしている。

 

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またエヴォラの彫刻は、大天使ガブリエルの顔が何ともユニークで、「言われたからここに来たけど。まったくなあ」と、マリアに同調してやや困惑気味にも感じられる。

 

いつ頃の作品か記録してこなかったので正確には判らないが、多分、イベリア半島イスラムが支配した後、さらにキリスト教徒によって再征服(レコンキスタ)されて以降(13世紀)だと思われるが、それにしてもこれは稚拙すぎやしないかと思う。

 

 宗教画は、制作者の好みに任されているだけで、依頼者側からは、何らかの基準は示されないのかとやや疑問すら覚えた。また、手本になるものがなければ制作するのも難しいだろうから、制作者はテーマに沿った絵をどこかで目にしているはずだ。だから、バルセロナのカテドラルの受胎告知と似通っていても不思議はない。

 

これらを目にして以来、宗教画は、どのような流れでイベリア半島にもたらされたのだろうと気になっていた。だが、ローマ遺跡絡みで、まずはローマが支配していた時代及びその後の地中海世界関連の読書に没頭していたため、そこまでは手が回らなかった。

 

それらが一段落してみれば、何とタイミングがいいことに、『聖母像の到来』(若桑みどり著・青土社・2008年)を図書館の書架に見つけた。これは、先に読んでいた同じ著者の『クアトロ・ラガッツィ』とも重なるテーマだ。

 

この研究の主題は序論によると、

"本書は、十六、十七世紀における近代世界システム構築期において、東アジアに進出したポルトガル/スペイン国家の世界制服/世界市場形成に随伴してカトリック教会が行なった布教活動によって、日本にもたらされた十六、十七世紀のキリスト教美術を問題にする。"(P・9)

 

ということだが、当然ながら、日本に入ってくる以前の宗教画についても詳しく記述されているので、私が知りたかったことの手がかりもあるかなと読み始めたらいきなり、

 

"《最後の審判》は完成直後から多くの反論にさらされた"(P・65)にエッとなった。しかも、"全面破壊されそうになった"とあるではないか。今では、世界中から人々を呼び寄せているヴァチカン・システィーナ礼拝堂ミケランジェロの作品にそんな危機があったとは、とまったく驚かされてしまった。

 

ちょっと長いが、トレント公会議(イタリア・トレントで1563年に行われたカトリック教会の公会議)でのその部分を引用させて頂く。

 

"トレント公会議はその最後の第二十五盛会議で聖画像の根本的な粛清を決定した。その内容は卑猥、不合理、不適切な画像を否定し、正統的、教義的、歴史的に正確な、また正直な画像を勧め、聖堂への画像の設置にあたっては聖職者の検閲を必要とするというものであった。・・・実際に、閉会直後の一五六四年一月二十一日、トレント公会議委員会は、《最後の審判》の一部を覆うことを決定した。・・・そしてピウス四世は作者の死後、ようやくダニエーレ・ダ・ヴォルテッラにもっとも「猥褻な」部分を描きなおさせた。このとき恥部を布で覆ったために、この画家は「ブラゲットーネ(大ふんどし)描きの異名を負うことになった。過酷な審問官出身のピウス五世はさらに凡庸きわまりない二人の画家にブラゲットーネを追加させた。・・・グレゴリウス十三世さえもが、全面破壊を考え・・・。グレゴリウスは、《最後の審判》を破壊して別の二流の画家に「天国」を描かせる意図を持っていた。彼に続くシクストゥス五世もフレスコ描きのチューザレ・ネッピアに「恥ずかしいところ」を覆わせた。"(P・64~6)

 

ここには、全面破壊を考えたグレゴリウス十三世が、その当時ローマにいたエル・グレコに相談したエピソードなども出てきて、関係者の皆さんが相当悩まれた様子が窺える。しかし、破壊されなくて本当に良かった。

 

また一方では、著者いうところの"二流の画家"が「天国」を描いていたらどんな絵になっていたのかなと、ミケランジェロの作品は破壊せずそのままにしておき、別の場所に描かせていれば、見比べることもできて面白かったかもしれないなんて考えも浮かぶ

 

まだこの本の途上ながら、ミケランジェロの《最後の審判》があわや破壊されかねなかったということに驚き、急ぎ取り上げてみたが、もしかすると、これは私が知らなかっただけで衆知の事実なのかな。

 

しかし、ミケランジェロだって、まさか自分の死後、すぐさま絵に手が加えられたなんて思いもよらなかっただろうな。それこそ、大天使ガブリエルのビックリ顔そのままに目を見開いて絶句したかもしれない。このようにいろいろ愉快な想像をしていると、絵を見るのがますます楽しみになってくる。

 

ところで気になる「受胎告知」だが、こちらも、ルネサンス以前とトレント以降では異なっているという。「受胎告知」がどのように描かれてきたかについては、P・190〜206までのページに詳しい。ご興味のある方はぜ一読を。ちなみに、カラヴァッジォやエル・グレコの絵も取り上げられている。

 

本を読んでいると、トレント以前のそれぞれの時代に描かれた「受胎告知」について更に知りたくなってくる。そして叶うことなら、改めてそれぞれの「受胎告知」を見て回りたいものだ。まったく楽しみは尽きない。