照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

天正遣欧使節・伊東マンショの生地都於郡(トノコオリ)を訪ねて〜宮崎・西都市

昨年2月に宮崎に行った折、西都市出身の友人が、古事記に所縁の場所を案内してくれながら、ついでのように、「伊東マンショもここの出身なのよ」と言った時は全くびっくりしてしまった。私としては、どうして伊東マンショ知ってるのであるが、友人からすれば、私がその名を知っていることに逆に驚いたようだ。つまり、お互いその名を口に出してみたものの、よもや相手が知ってなんてことはあるまいと思っていたのだ。

 

f:id:teruhanomori:20170928060547j:image

展覧会 パンフレットより

 

私の方は、天正遣欧使節に関して歴史の教科書にあったかどうかさえ記憶が定かではなく、2015年の年末にポルトガルへ旅した際、エヴォラのカテドラルで初めてその足跡を知ったのであった。そして、伊東マンショ肖像画がイタリアで発見されたということで、昨年の6月、それが上野の国立博物館で展示された時に見に行った。だが、興味はそこまでであった。

 

それが今年の7月、たまたま若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ』を読み、急に伊東マンショはじめ、天正遣欧使節の少年たちに関心が湧いてきた。そして、次回宮崎へ行ったら、ぜひとも西都市の都於郡を訪ねたいと考えていた。

 

ちょうど本を読み終えた頃、友人からのハガキで、6月にご主人を亡くされたことを知り、秋のお彼岸に合わせお線香をあげに宮崎へ伺うことにした。

 

友人は、今度はどこに案内しようかいろいろ考えてくれていたようだが、私が都於郡に行きたいと伝えると、「何故?」と、まったく意外に感じたという。そして、私は私で、その名を以前友人から聞いた時にもましてびっくりしたことに、いざ会って話をしていた時、

"伊東マンショが生まれしところ
我らの我らのふるさと"

と、都於郡小学校の校歌まで歌ってくれた。何と友人は、伊東マンショの生まれたまさにその地がふるさとだったのだ。校庭には、伊東マンショ銅像も立っていたという。

 

f:id:teruhanomori:20170928060434j:image

左端奥に都於郡小学校

 

f:id:teruhanomori:20170928060451j:image

 

登校するたびその像を目にし、事あるごとに校歌を歌っていたのだから、これじゃ、私などが知る遥か前から伊東マンショに親しんでいたはずだと納得する。

 

ちなみに、都於郡小学校のホームページによると、現在の校歌は別だ。スマホでその校歌を友人に示すと、作詞者の名を見て、「金丸純子(すみこ)先生は、隣のクラスの担任の先生だったわ」と言うではないか。これにもびっくり。但し、この校歌に伊東マンショの名はなく、歌詞の3番に、"遠く ローマへ 続く道"と僅かに暗示されるだけだ。

 

f:id:teruhanomori:20170928060321j:image

三の丸への階段

 

f:id:teruhanomori:20170928060359j:image

 案内図 

 

f:id:teruhanomori:20170928060412j:image


都於郡を訪ねた日はあいにく雨で、三の丸辺りをざっと見学しただけだが、本丸も含めた全体が、想像していたよりずっと広く、これまた「エッ!」という驚きであった。

 

宮崎へ来るほんの少し前、久しぶりに読み返した『イタリア古寺巡礼』(和辻哲郎著・岩波文庫)に、天正遣欧使節の足跡を辿ろうと、パリからスペインへ回る方の話が出てきた。何度も読んでいる本なのに、以前は、この部分に何かを感ずることなど特になかった。だが今回は、その当時(1927年)から、日本人としてヨーロッパを初めて訪れた少年たちに熱い想いを抱いていた人々がいたのかと改めて興味を引かれた。

 

検索すると、その浜田さんという方も天正遣欧使節に関する本を書かれていた。しかしその本は、図書館で見つけられなかった。だが、ちょうど書架には、松田穀一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)があったので、『クアトロ・ラガッツィ』とは別の視点で書かれた本も読んでみたかったため早速借りてきた。

 

こちらは、「伊東マンショとは誰か」(P・38)等、4人の少年たちの出生についても詳しい。(但し、それほど資料が残されているわけではない)

"昭和の初年に村上直次郎博士がマンショの郷里は「都於郡」であることを明らかにされたので、郷土の方々は思いがけぬ史実に驚き、かつ喜んでその記念碑を建てたのであろう。"(P・41)

 

とあるので、もしかすると都於郡小学校の校歌の歌詞にも、その辺りが反映されているのかもしれない。それを友人に伝えると、「そうかもね」と笑っていた。ただ友人いわく、「この頃は、伊東マンショといえば飫肥の方が有名になっちゃっているのよ」とのことだ。

 

飫肥(オビ)は、島津氏を降伏させた秀吉が、伊東マンショの母・町上(マチノウエ)の異母兄弟伊東祐兵に与えた領地だ。帰国後、秀吉から自分に仕えるよう誘われるも辞退し、九州各地で布教に従事していたマンショは、伊東祐兵に招かれて飫肥にも赴いているという。その頃、町上もその地に住んでいたらしい。

 

確かに飫肥は、小京都と言われるだけあって町並も風情がある。実際私も、飫肥の雰囲気が気に入って二度ほど訪れている。友人言うところの「何もない」都於郡城址よりは、人の注目が絵になりやすい所に集まるのも仕方のないことかもしれない。でも、島津氏に攻め入られてこの地を離れざるを得なかったマンショが、7、8歳の頃まで過ごした地はやはり見るに値する。

 

その後で、西都原古墳群の方へも回ってくれたのだが、ポコポコと数多くある古墳の緑と、その下に咲く曼珠沙華の赤とのコントラストがとても美しかった。ここへ来るのも三度目だが、時期が違えば眼に映る光景も異なることを改めて感じた。

 

また今回はパスしたが、県立西都原考古博物館もおすすめスポットだ。この3階のバルコニーから周囲を見渡していると、とても気持ちが良く、心が澄んでゆくような気がする。

 

ともかく、古事記にもその名が記されている西都は、派手な宣伝こそせずに、むしろ奥床しく佇んでいる感じがより好ましい。いい所だ。とても美味しい本部うなぎ屋さんもある。その紹介はまた今度。