照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

杉原千畝から根井三郎、市井の人々、そして小辻節三へと引き継がれた命のビザ

(凄い人がいたものだ)と、『命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民』(山田純大著・NHK出版・2013年)を読み終えて暫くは、その偉業にただ感服していた。そして、乏しい資料を手繰りながら、丹念に小辻節三という人物の足跡を追い続け、本として結実させた著者にも、まったく頭が下がる思いだ。


9月下旬、宮崎を訪れた時のことだ。昼食のため本部うなぎ屋さん西都市)に伺った際、友人が、「ここのうなぎは佐土原のよ」と言ってから、ふと思い出したように、「あの“命のビザ”に関わりのあった一人、根井三郎も佐土原の出身なのよ」と教えてくれた。


初めて耳にする名前でもあり、その場は、そういう人もいたんだくらいで終わってしまった。それから一週間ほど経ったある朝、ラジオから根井三郎という声が聞こえてきた。リトアニアから日本通過ビザを持ったユダヤ避難民がウラジオストクに続々と到着し出した頃、書類の再検査をするようにとの外務省からの指令に抵抗し、かつ日本へ渡れるよう尽力した根井について、この番組の宮崎市内在住の地域レポーターの方が話されていた。

 

と同時に、根井三郎ってどんな人だったのだろうと、俄然興味が湧いてきた。だが、地域レポーターの方もおっしゃっていたように、根井本人が当時の事を言わなかったこともあり、宮崎では、このことは知られていなかったそうだ。市(だったか県だったかはややうろ覚えだが)では、まず、佐土原で根井姓を当たっての親族探しから始めたそうだ。

 

根井三郎について、何か詳しく書かれた本でもあればと考えていたが、これではちょっと望み薄な感じだ。それでも、図書館でいろいろ検索するうちに見つけたのが、今回手にした本だ。但し、根井三郎に関しては、他の本に記述されているのと同じくらいほんの僅かであった。しかし、もともとのテーマが小辻節三なのだからそれも致し方ない。


ちなみに、外務省の指示に対して、“・・・日本の出先機関が出したビザの信用を失わせてしまうと言って、必死に抵抗した。”(『六千人の命を救え!外交官杉原千畝』白石仁章著・PHP研究所・2014年・P・124)根井三郎は、ハルビンの日露協会学校で杉原千畝と一緒に勉強した仲間の一人で、当時ウラジオストク総領事代理を務めていたそうだ。


ところで、当初著者名に、あの「あぐり」で吉行淳之介役を演じた俳優さんみたいだけれど、何故?この本をと、かなり意外に感じた。でも、読み進むうちに、著者にとっても最初はただの好奇心だったものが、次第にこの事実を世に知らしめることが自分の使命ではないかへと変わっていく過程に、そうだろうなとすんなり頷ける。

 

“「『百年以内に誰か、自分をわかってくれる人が現れるだろう』・・・父は亡くなる間際にそんなことを言ったの」
その言葉が、私の心に強く響いた。
帰りの車の中で私は急にニューヨークで会ったトケイヤー氏の言葉を思い出した。
「君が小辻のことを本にしなさい」”(『命のビザを繋いだ男』・P・29~30)


確かに、この力作が出版されるまでは、“彼の功績を知る日本人は少な”かったことと思われる。小辻の娘さんたちからして初めは、トケイヤー氏から教えられて電話したものの、取材には絶対応じられないと難色を示していたという。それまで、よほど嫌な思いをし続けてきたに違いない。

 

数ヶ月して会う機会が訪れた時、著者は、英語で書かれた小辻の自伝のどの部分に自分が感銘を受けたかを話すうち、娘さんたちにも、小辻のことを本気で知りたいというその熱意が通じ、それ以後はかなり協力して頂いたそうだ。

 

著者本人も、さまざまな偶然によって小辻及び彼を知る人々に辿り着いたが、小辻自身もまた、まるでドラマの如く、危機に陥る度、助けが得られている。小辻が、ユダヤ難民のために、どのような働きをしたかについては本を読んで頂くとして、憲兵隊本部から出頭命令が来た翌日、尋問から拷問へと切り替わり、意識が朦朧としかけた時の出来事は、まさに劇的だ。

 

この時代、彼と同様に拷問を受けた人々の多くが命を落としている。出頭命令を受けた時から、“憲兵隊の背後にはナチスの影がある。ならば、自分は逮捕され、拷問の末に虐殺されるだろうー。”(P・129)と覚悟を決め激痛に耐えていた小辻の前に、大佐の階級章を付けた男が現れ彼を救う。“男はかつて、満州で小辻と家族ぐるみの交流をしていた憲兵隊のシラハマ・ヨシノリだった。”(P・130)


その後、安全を求めて小辻は、家族を伴って満州に向かう。後でわかったことだが、憲兵隊の暗殺者リストに名前が記されていたそうだ。まさに間一髪のところで、知人が目の前に飛び込んでくるのはまったく奇跡的だ。でも、彼の場合、窮地には必ず手が差し伸べらている。それもみな、報いなどまるで考えることさえなく、それまでに本人が、ただ人としての信念に基づいて為したことへの結果だ。

 

杉原千畝から始まった命のビザが、根井三郎、難民を日本へと運んだ船、上陸した人々に優しく接した敦賀の人々、そして、向かった先の神戸で難民たちから窮状を訴えられて手を貸すことになった小辻節三へと繋がったからこそ、六千人の命が助かったのだ。どれが欠けても上手くいかなかったとはいえ、それでも特に、10日間の通過 ビザしか持たない難民たちの落ち着く先が見つかるまで、ビザ延長に尽力した小辻の力は大きい。

 

外務省に何度足を運んでもすげなく断られ、しかたなく、旧知でもあった当時の外務大臣松岡洋右に相談しに行った折、松岡があるヒントをくれたことでビザ延長に成功した。しかもなんと松岡は、杉原が本国にビザ発給の許可の求めた際、ノーと言った人物でもあったのだ。著者が、この時の松岡の胸中を考察する辺りもなかなか興味深い。

 

だが喜んだのも束の間、その少し後ドイツから、”大量のユダヤ人を虐殺し、ユダヤ人から蛇蝎の如く恐れられていた男“(P・103)ヨーゼフ・アルベルト・マイジンガーが、東京に派遣されてきたという。そしてマイジンガーは、ユダヤ難民を一網打尽にしようとあれこれ画策していたそうだ。

 

神戸のユダヤ人は増え続ける一方、ナチスドイツからの圧力はますます激しくなっていき、受け入れ国のビザを持たないユダヤ難民の渡航先であった日本占領下の上海では、残忍極まりないマイジンガーの計画に同調する日本軍将校たちもいたという。

 

それにしても、そのような危うい状況に置かれていたユダヤ人たちのことを思えば、日本から難民たちを出国させることができて本当に良かった。まったく著者いうところの、“日本の歴史の一ページに「ホロコースト」という汚点を残さずに済んだのである。”(P・117)

 

そして、小辻節三の奮闘によって救われたのは、六千人のユダヤ難民だけでなく、私たち日本人の名誉でもあったことが分かる。こんな大恩人を、後世に生きる私たちはしっかり胸に刻む必要があると、改めて思う。

 

*お知らせ

今回を以って、「照る葉の森から」は終了致します。

これまでお読みくださった皆様、本当にありがとうございました。