照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

仕事についての雑感 その2

思えば私は、これまでどのように職業を選んできたのだろう。世の中には、業種も職種もどれほどあるのかさえ知らず、実務というよりイメージで仕事を捉えていた気がする。

初めて入社した会社は、学生向けに企業の情報誌を、制作、配布する会社であった。偶然手にした本の最終ページに、その会社の企業理念が載っていた。それに共感した私は、是非ともこの会社で働きたいと思った。募集がないにも関わらず、自分から電話して試験を受けた。

営業から企画制作、編集、映画製作、職業診断テスト開発、総務、経理などなど、会社内での職種は幅広かった。希望する部署への配属ではなかったが、事務仕事はどこでもそれほど違いはなかった。部内には同期も多く学校の延長のようでもあった。人間関係で苦労する事もなく、毎日楽しく会社に通っていた。だが、2年目を過ぎてしばらくすると、居心地の良いぬるま湯的な日常を変えたくなって辞表を出した。辞める理由は何もなく、今になれば、ただ心がふわふわしていたとしか考えられない。

次の会社に入るまで、短期でずいぶんいろいろなアルバイトをした。ソフトクリームの販売、食品輸入会社、人形劇の制作会社、参考書類を出版している会社など多数だ。当時の私は、面白そうが、仕事を選ぶ基準であった。だが実際にやってみると、楽しいというよりどれも難しかった。

ソフトクリームをきれいな形にするのは、不器用者の私には大変であった。何度やっても、ダラっと横に流れてしまい、きれいな山にはならなかった。他の仕事も同様で、出版社では、私の仕事が役に立ったのかさえ疑問だ。ある時など、顕微鏡の絵を時間をかけて丹念に描いていたが、あれは何だったのか、今もって分からない。いずれにせよ、日々楽しくはあったが、自分に向く仕事はあまりないように思えた。

次に入社した会社は、アニメーションを主としたコマーシャルフィルムの制作会社であった。ここでは制作アシスタントとして何でもやった。自分にとって初めて目にする世界は、魅力的であった。小さな会社だったが、気楽で居心地が良かった。だがそのうち、海外から依頼された仕事への報酬が滞りだし経営が苦しくなってきた。1年を過ぎた頃より給与の遅配が続き、家賃の支払いにも困った私は、結局2年で退社した。貧乏は苦ではなかったが、生活するためには最低限のお金は必要だった。

その後は、広告制作会社へ入社、写真部に所属した。モデルの手配をはじめ、部内の雑用全てが私の仕事であった。カメラマン数人と私だけの部所は、やはり気楽であった。キャスティングにはモデルのギャラ交渉も含まれるが、仕事として難しい事も煩わしい事も特になかった。外部のカメラマンやスタイリストを頼む事も多く、皆さんから聞く話も、若い私には興味深かった。

正社員としての4社目が、今の会社だ。仕事も営業事務で、これまで敬遠してきた類の仕事だ。ただ生活のためとだけ考えていたので、これまでのような基準もなく、職種には拘らなかった。

古色蒼然としたこの職場では、人間関係も給与の内と思って働いていたが、なかなか大変であった。若い時分の私なら、絶対に選ばない会社だ。ところが、意外に仕事も自分に向いていたのか、途中で組織の形や名前は変わったが、かなり長い事勤めている。詳しく書けないが、通常経験しないような、驚く事がいろいろ起こる会社でもあった。

だが、この会社で働いたおかげで、個人の楽しみもまたずいぶんと達成できた。長い間には、いろいろな事に押し潰されそうな日々もあったが、今ではむしろ感謝している。人には、必要な時必要な事が起こるのかもしれない。それを試練と捉えて対処できるかどうかだ。私も、ここで堪えたおかげで、得るものも多かった。また、自分を困らせる要因は不思議と遠ざかり、代わりに居心地が良くなっていった。人生は、我慢ばかりでもなく、いつの間にか楽しい方へも動くものだ。

振り返ってみれば、生活のためと覚悟を決めて働いてきた会社が、自分に一番合っていたという事になる。若い頃のように、仕事に面白さを求めるのもいいが、ある程度の期間働いていれば、どの業種も職種もそれほどの違いはないように思えてくる。私は、仕事は生活の手段と割り切り、余暇に重きを置いてきた。結局、仕事は、何に価値観を見いだすかの問題かもしれない。自分に合っているかとか、理想を求めてあれこれ悩むより、先ず目の前の仕事に取り組んでみることだ。そこから自ずと見えてくるものがある。何かを掴んだら、また先に進めばいい。それが、自分の骨格となってゆく。どこで何の仕事をしようと、全ては自分次第ということだ。