照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

お彼岸の中日に

お彼岸の中日は、どうしてこんなに混むのだろう。先日、母の墓参りのため高速バスに乗れば、補助席まで満員の激混みで、その上高速道路はかなりの渋滞であった。

行きは30分の遅れで済んだが、帰り、東京方面へは通常の倍近くかかった。私にとっては母の命日でもあり、どうせ行くならと、混むのがわかっていながらもついこの日にしてしまったが、お彼岸の中日って、誰にとっても特別なのだろうかとふと思う。

母は常々、どこから手を合わせても同じだから、わざわざ墓参りには来るに及ばずと言ってくれていた。通常はその言葉に甘えていたが、それでも何か区切りのような時には、墓前に報告したくなる。

私は、人が死んだら、肉体同様魂もこの世に存在しないと思っているが、墓の前ばかりかどこでも、母を想って手を合わせる時はいつも、心の内で語りかけている。すると、ちょっと矛盾するようだが、母に声が届く気さえしてくる。多分それは、祈ることで、自分の中に安心感が生まれるからだろう。

日頃無宗教と言いつつも、先祖への墓参りこそ、私にとっては唯一の宗教的行為かもしれない。但し、これぞと言って帰属する宗教は持っていない。私の実家は真言宗だが、母の実家は神道だ。しかし、選んだのではなく、その地域によって、たまたまそうなっただけという要素が強い気がする。

今回は母の実家や、同じく神道である伯母の家にも出向いたが、線香のあげ方にも、これといった決まりもなく自由だ。かつてから宗教は、人々にとってこれくらい緩やかだったのではないかと思う。殊に日本のように、森羅万象あらゆるところに神が宿るという世界では、仏教か神道の違いなどは、一般の人々にとって、式を執り行うやり方の違いくらいの認識でしかない。

それは、特別熱心な仏徒以外は宗派の違いでも同様で、仏事の時に、自分の家の宗派を思いだすくらいだ。ちなみに実家は真言宗智山派だが、母が熱心でなければ、私だって宗派があることすら知らなかったに違いない。

だが、ことさら宗教を意識せずとも、身に近い人々への敬意が、墓参りという行為で表されるのだと思う。しかし、中日に行くということに、皆何か特別な意義を見出しているのだろうか、それとも単なる習慣なのだろうか。私も毎回中日に行くわけではないが、行く時は決まって、高速道路は大渋滞だ。

f:id:teruhanomori:20160321184649j:image
サイクリング用道路の向こうに利根川

進まぬバスの中で、上記のようなことをぼんやり考えていたが、やがて渋滞を抜け、高速道路を降りると、左手に見える利根川の土手一面には菜の花、まさに春うららの関東平野だ。このような何の変哲もない風景を見ているだけで、心和らぐ思いだ。

こんなに気持ちの良い日は、誰だって出かけたくなるだろう。それがたまたまお彼岸の中日と重なったのかもしれない。自分の問いに自分で納得。渋滞にはあったものの、ともあれ、良い1日であった。