照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

(何でも自分で精神)が鍛えられる下の子ー公園で遊ぶ幼子に思う

先日砧公園へ行った折、柔らかな日差しの下で跳ね回る子どもたちを眺めていたら、黄色のボールで遊ぶ1歳半くらいの男の子に目が止まった。

手で持ち上げたボールを前方へ投げようとするのだが、うまく飛ばずにポトリと足下に落ちるだけであった。それでも、拾っては投げてを繰り返していたが、何度目かに、そのボールがたまたまつま先に当たって前の方へ転がっていった。

すると、蹴る方が面白くなったのか、まるでサッカーをしているように、上手にボールを転がしてゆく。それも、とんでもない方まで行ってしまうわけでもなく、お母さんのいる辺りから外れることもなく、うまく一回りしている。

但し、こんな小さな子がと、そのボール捌きに感心して見とれているのは私くらいで、お母さんは、4、5歳くらいのお兄ちゃんと遊ぶのに忙しい。初めはシャボン玉を飛ばしていたが、やがて縄跳びに移った。どちらも、弟くんにはまだ難しい。結局、一人でボールを追いかけている方が面白いようだ。

その合間には、近くに寄ってきたスズメに興味を持ち、お母さんたちに向かって、草むらを指差しながら「ああ〜」とか言って教えるが、むろんまだはっきりとした言葉にならないその声は届かない。でも、そんなことは気にしない。スズメがいなくなるまで眺めてから、またボール遊びに戻る。

下の子はこうして、(何でも自分で精神)が鍛えられ、逞しくなるのだなと思った。そういえば次男も幼稚園の頃、自転車の乗り方を自分で覚えた。先ずは上の子からと、広い公園まで自転車を持ってゆき、毎日練習させていた。自分も一緒に買ってもらったのに、なかなか教えてもらう順番が回ってこない次男は、やがて見よう見まねで自転車を乗り始めた。

初めは、ぶつかったり転んだりしたが、すぐに上手に乗れるようになった。手取り足取り大奮闘して教えなくても、子どもは覚えるものなんだと、その時私は、下の子の逞しさにまったく驚いてしまった。

そして、司馬遼太郎さんの『街道を行く』シリーズのニューヨーク編だったと思うが、あるお宅にお邪魔した時、そこの兄弟を見て、"次男は戦闘的な模倣者"と表現しておられたが、それが思い出された。確かに、教えてもらうまでただ待っているより、自分から積極的に模倣し、覚えた方がずっと楽しい。「戦闘的な」というように、弟には常に、兄という目標となる相手がいる。

「自分がマネっこしているのに、マネっこちゅるな〜ばっか言うんだよ」と、長男のの悔しそうな口調が蘇る。その時私は、どんな言葉を返してあげただろう。きっと何の足しにもならないことを言ったに違いないが、今なら多少気の利いたことが言えたかな。いつだって賢さは、必要な時に手元にないのが残念だ。

ところで、未来のサッカー選手は、お母さんとお兄ちゃんがシャボン玉や縄跳びに興じている間も、黙々とトレーニングを続けている。本当に子どもは、未来そのものだ。どの子も、このままスクスク育ってと、心の中でエールを送ってから、私も再び歩きはじめた。