照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

今を生きるー自分が出合う全てが一期一会

一期一会って、良い言葉だなと思う。それは人だけでなく、風景でも風でも、花の香りでも、その時々に自分が出合う全てに当てはまる。自分にとっての今は一度だけ。昨日と同じように思えても、陽の光も違えば風も違う。全く同じということはない。だからこそ、一瞬を逃さず、自分がその時出合ったものを大切にしたい。先日、ベンチで偶然隣り合わせた方から四谷軒牧場の話を伺った折、ふとそんなことが頭を過ぎった。

同じ時間に同じ場所に行き合わせた人と言葉を交わすって、まさに偶然の賜物だが、僅かでもずれたら、その出会いはないのだから、思えば不思議だ。同様に、思いがけないところで、懐かしい人にばったりということも、偶然で片付けるには不思議すぎる。金沢で兼六園から成巽閣へ回った時、部屋から部屋を巡っていて高校時代の知り合いに会った時は本当に驚いた。

クラスメイトを通じて知り合った彼女とは、クラスも異なったため、多少話をする程度であった。だが、意外な場所で知っている人に会えたことで、初一人旅の緊張も僅かに解れ嬉しかったのを思い出す。ただ、彼女は団体で来ていたようで、慌しくほんの立ち話のみで別れた。

高校を卒業する前に、一人で京都を訪れたことはあったが、その時は従姉妹の家に泊めてもらったので、本格的な一人旅は、19歳のこの時が初めてであった。数十年前、国内とはいえ女性の一人旅はまだとても少なかった。一人暮らしの身では電話など持てず、宿の予約もハガキでやり取りした時代だ。見知らぬ土地を訪ねるというワクワクした思いの底には、少なからぬ心細さもあったと思う。

それが、顔見知りの人に出会い、勇気が後押しされたように感じたのかもしれない。事実、この初日の出会いを皮切りに、それこそ一期一会とも呼ぶような幾つかの出会いに恵まれて旅を終えた。

バスに揺られて眺めた能登の海や山側の家々は、今尚くっきりと目の前に浮かんでくるが、あの路線はまだあるのだろうか。また、途中から道連れになった女性がいなかったら、不安に思え止めてしまおうかと思った禄剛崎へ続く遊歩道は、今はもっと歩きやすくなっているのだろうか。5月の連休というのに、ともかく人が少なく寂しい印象が強い能登であったが、むしろ今となってはそれが贅沢かもしれない。

古い出会いを振り返っていたら、19歳の私がひょっこり顔を覗かせる。もはや、同じ道を辿ったとしても、その歳でなければ見えない世界がやや懐かしい。代わりに、今は今の年齢で見えてくるものがある。だからこそ、その時々を大切にしたいと、改めて思う。そして、今目にしている景色が、明日も同じとは限らないということを常に意識しておきたい。一期一会って、つまりはそういうことだと思う。